役立たずの読書集

■目次

序文 ▼『珍説愚説辞典』 ▼『象は世界最大の昆虫である』 ▼『決定版・尾崎放哉全句集』 ▼『文体練習』 ▼『コミック・文体練習』 ▼『鼻行類』 ▼『平行植物』 ▼『鼻ほじり論序説』 ▼『秘密の動物誌』 ▼『人生を完全にダメにする11のレッスン』 ▼『卓越した心理療法家のための参考書』 ▼『偽書百選』 ▼『完全な真空』 ▼『キリンの飼い方、象との暮らし方』 ▼『針聞書 虫の知らせ』 ▼『当世病気道楽』 ▼『架空升野日記』 ▼『ないもの、あります』 ▼『新版 恐竜の飼い方教えます』 ▼『万国奇人博覧館』 ▼『ジョン・ケージ著作選』

▼序文

 子供の頃、読書をしろとよく言われた。両親はいろいろと本を買い与えてくれたのだが、僕はそんなものには一向に興味を示さず、スーパーファミコンばかりしていたのだった。スーパーファミコンやそれ以前のパソコンのゲームであるMSXというものも同じくして親が買ったものだったので、彼らは僕がテレビゲームばかりに興味を示したからといって、特に何も言わなかった。
 大人になり、テレビゲームをする代わりに少しばかりだが本を読むようになった。決して本が好きではないのだが、読書というのは有用なものなのだということを知っていった。そうした中で、僕は驚天動地の考え方を知ることになった。
 「読書しすぎることは悪である」
 すなわち、読書をしすぎることによって、知識だけが頭の中に蓄積されて、自分で考えることを疎かにしてしまうということだ。つまり、本を読まないことは悪なのだが、本を読みすぎることも悪なのである。
 以下に挙げる書物たちは、仮に読んだとしても何の知識も得られないし、最大で「読まなければ良かった」という充実感を得られる代物である。本棚に飾っておくだけでもいいし、誘惑に駆られて読んだとしても、何も起こらない。感動も何もなく、読書という行為と対峙した時間そのもののみが無為に過ぎ去っていくばかりだ。
 そういうものが僕は好きだ。動物は何かの役に立つために生きているが、我々は人間なのである。その営みの中の役に立たないものというのは、人間としての存在理由とも言うべきものにはならないだろうか。

▼『珍説愚説辞典』
J.C.カリエール、G.ベシュテル著 高遠弘美訳 国書刊行会
 間違ったことしか書いていない辞典である。つまり、時代を問わず世界中の者たちが著したものの中で、「わけのわからない言葉、間違い、誤綴、莫迦げた考え、大胆すぎる仮説」だけを厳選して集めた辞典である。
 Amazonのカスタマーレビューの中に「こんな辞典、よくもまあ編纂した人も編纂した人だが、翻訳した人も翻訳した人だし、刊行した出版社も出版社だ」と書かれているが、まさにその通りである。
 無駄なことしか書かれていない辞典。これを読むことによって、読者はどこでもない場所に置き去りにされ、「読んだ」という充実感のみに支配される。

 ――投げ縄を武器として用いる試みがなされてきた。(略)現在までのところ、こうした試みは殆ど無意味な結果に終わっている。投げ縄は銃はおろか、現今、我々の騎兵連隊に再編入が検討されている剣やつまらぬ槍にも遠く及ばないのである。
  P・マルトゥファニ 『若き日の日記』 1889年2月

 ――それでも、同じ罪を犯した複数の犯罪者を拷問にかける場合の問題がある。バルドの指摘によれば、法は、最も醜く歪んだ顔の者から始めるべしと定めているという。
  C・D・ド・ラ・ベリエール 『理論的相貌学』 1664年
▼『象は世界最大の昆虫である』
池内紀編訳 白水uブックス
 18世紀末から19世紀初頭のドイツに実在したガレッティという人物の失言のみを集めたもの。彼は教授であり、当時は知識人として名高い人物だったそうだが、今となっては、その膨大な失言のみによってかろうじて名を残している。
 タイトルの「象は世界最大の昆虫である」も彼の失言の中のひとつ。「窓ガラスを割ったのなら、ガラスを入れ換えれば済むことです。バカをしでかしたのなら、同様にバカを入れ替えなくてはならない」というのもあった。何を言っているんだこの人は。
 あまり知られていない本だが、思うに、売り方次第では売れた本である。サブカルチャーのコーナーあたりに平積みにして、仰々しいPOPを取り付けて目立たせれば、恐らく、珍しい物好き達の興味を引くことになっただろう。しかし、実際にそうはならず、知る人ぞ知るものになっているのだが、それはそれで趣き深い。
▼『決定版・尾崎放哉全句集』
伊藤完吾、小玉石水編 春秋社
 尾崎放哉は、自由律俳句の世界では種田山頭火と並び評される人物である。種田が陽だとすれば、尾崎は陰だ。
 代表的な句に、「墓のうらに廻る」、「美しい乳房だ蚊が居る」、「咳をしても一人」などがあるが、専門家に言わせれば、尾崎放哉の句は「何かを表現しようとする意志の片鱗すら見られぬ」のだそうだ。確かに、「墓のうらに廻る」と言われて、我々はそこから何を読み解けばいいのかさっぱりわからない。
 本書は全句集であるので、「表現しようとする意志の片鱗すら見られぬ」ものがずらりと並ぶ。それらを眺めたのちに本を閉じる行為は、意味の片鱗すらないように思え、心地よい。
▼『文体練習』
レーモン・クノー著 朝比奈弘治訳 朝日新聞社
 バスの中で傍若無人なひとりの青年を見かけ眉をひそめるが、同じ日にそいつを別の場所でもう一度見かけた。
 たったそれだけの他愛ない出来事を99通りの表現で書き表した本。小説なら200ページの中で物語が起承転結し、我々を楽しませてくれるのだが、この本は200ページの中で表現を変えた同じ物語が99回繰り返されるのである。
 本国フランスでは文学の教科書的な扱いをされており、日本においても、陰ながら割と人気があるらしく、知名度も高いようだ。同じ物語を99通りの語り方で表現するというアイデアもさることながら、日本語訳も秀逸であり、装丁のデザインも美しい。
 しかしながら、200ページの本で3500円は高い。お邪魔した家の本棚にこれがさりげなく置いてあったら、殆ど尊敬してしまうだろう。
▼『コミック・文体練習』
マット・マドン著 大久保譲訳 国書刊行会
 上記『文体練習』の考え方を漫画で実践した書。どちらかと言えば、僕はこちらの方が好きだ。コミックなので読みやすいし、直感的だからである。
▼『鼻行類』
ハラルト・シュテュンプケ著 日高敏隆、羽田節子訳 平凡社ライブラリー
 ハイアイアイ諸島で発見されたとされる鼻で歩く哺乳類の生態について著された世界で唯一の書物。それらが実在したのかどうかはどうでも良く、これを本棚の目立つ場所に収納しておくだけで、動物通を気取ることができる。
▼『平行植物』
レオ・レオーニ著 宮本淳訳 ちくま文庫
 『スイミー』を知っているだろうか。小さな魚の話で、恐らく、小学1年生の国語の教科書において最初に掲載されている物語である。その著者が書いた植物についての本である。
 これはかなり壮大な力作である。文庫本で350ページ余りの著作であり、その全てが虚構だからである。平行植物などという植物は地球上に置いて存在しないし、存在したことすらなかったのである。著者自身が描いた挿絵は幻想的で美しい。
 僕は本書を所有しているが、1文字たりとも読んだことはない。著者の想像力に圧倒され、読むことが憚られるのである。
▼『鼻ほじり論序説』
ローランド・フリケット著 難波道明訳 バジリコ
 鼻ほじり、つまり、鼻に指を突っ込んでほじることの歴史、方法、作法、効能、余談についてまとめられたもの。アカデミズムに対するパロディーであり、これほど馬鹿な本を僕は見たことがない。
 装丁はそれらしくきちんとしているので、哲学書などが並ぶ本棚にさりげなく忍ばせておくと、小粋である。
▼『秘密の動物誌』
ジョアン・フォンクベルタ、ペレ・フォルミゲーラ著 管啓次郎訳 荒俣宏監修
 過去に存在した動物や幻想の中で作られた動物についての書物は数多あるが、本書は存在しない動物を写真に収めたという点において特筆すべきものである。そしてその訳書が、ちくま学芸文庫という非常にお堅い場所から刊行されていることについても注目に値する。つまり、存在しない動物を写真に収めるという不毛で無意味な行為が、極めて不毛で凄まじく無意味であるがために、遂に学術という場所まで持ち上げられ、認識されるに至ったということである。
▼『人生を完全にダメにする11のレッスン』
ドミニク・ノゲーズ著 高遠弘美訳 青土社
 タイトルの通り、人生をダメにするための考え方や方法が書かれており、本国フランスではちょっとしたベストセラーになったらしい。
 もちろん著者は一種のユーモアとしてこれを著したに違いない。しかし、僕はフランス語で書かれた文章のニュアンスを、奥行きをもって解釈するバックグラウンドを持ち合わせていなかったので、秀逸に日本語訳されているとはいえ、本書のユーモラスな部分を細部まで理解することは困難だった。特に、皮肉めいたものをどう理解していいのかがよくわからない。しかしながら、硬派な姿勢で「人生をダメにする方法」をレクチャーしているところは好感を持てる。「ダメな人生とは何か」から始まり、その実践の手段に至るまでが丁寧に書かれているので、初心者でも容易にその概要を理解し、実行することが出来る。
 本書は、感傷に浸るためのものでもなければ、反面教師的な役割を担うものでもない。何でもないときに徐にページを捲って、ほんの少し浮き立った足を地面に着地させ、あわよくば地面にめり込ませて、茫然とするためのものである。
▼『卓越した心理療法家のための参考書』
グレン・C・エレンボーゲン著 篠木満訳 星和書店
 心理療法家や精神科医たちが発表した論文をまとめたものだが、それらの論文の内容は全て虚実である。わざとふざけたことを真面目に書いたのだ。「死者の心理療法」という論文がまるでコントのようだった。
▼『偽書百選』
垣芝折多著 松山巌編 文春文庫
 過去にこの世に存在しなかった国内の著作を100冊紹介している。
▼『完全な真空』
スタニスワフ・レム著 沼野充義訳 国書刊行会
 存在しない本の書評をまとめたものである。同著者の著作に『虚数』というものがあるが、これは存在しない本の序文集である。
▼『キリンの飼い方、象との暮らし方』
非日常研究会 新潮OH!文庫
 キリンや象など、動物園でしかお目にかかれない動物たちと、自宅の室内で共に暮らすための手引書である。
▼『針聞書 虫の知らせ』
笠井昌昭、長野仁著 ジェイ・キャスト
 戦国時代の書物『針聞書』を紹介するための図録。
 かつての我が国では、病気は虫のせいで引き起こされると考えられていた。『針聞書』は、その空想の虫たち63種を描写し、病気の治療法を著したものである。
 「ゆるキャラブーム」の流れに乗って、これらの空想の虫たちが、若干ではあるが話題になっていたようである。
▼『当世病気道楽』
別役実著 ちくま文庫
 かつて人類にとって脅威だった病気たちが現在、沈静化しているのは、近代医学の発展によるものではなく、病気自体の堕落によるものであるから、病気の復権のためには我々は率先してそれらを患わなければならない、という論理に基づいて執筆された、病気を趣味にし、楽しむための手引書。
 ケラリーノ・サンドロヴィッチという劇作家が、別役実の『病気』という戯曲を読んだ際、書いた当人に賛辞の意味で「くだらないですね」と言ったところ、大変喜んでもらえたと言っていた。そういう意味で、本書はまさにくだらない。著者の数多ある著作の中でも最もくだらない傑作の部類に入ると思う。序文からあとがきまで、徹底してくだらないのである。

 ――過日、ジュネーブの国際医療保険機関が調査したところによると、人間は「痛み」をこらえて七転八倒している時、最も「退屈」しない。(略)同機関は「視床痛」に苦しむ患者28名、「尿路痛」に苦しむ患者53名を任意に抽出し、特にその「痛み」の激しいときをねらって、「あなたは今、退屈していますか」と質問したところ、81名全員から「いいえ」という回答を得たのである。
  「疝気」の項より
▼『架空升野日記』
バカリズム著 辰巳出版
 バカリズムのブログを書籍化したものである。このブログというのが、架空のOLの日常を報告するというもので、著者であるバカリズムは全く登場しない。
 この徹底したどうでも良さと「だから何なんだ」という感じがとても良い。
▼『ないもの、あります』
クラフト・エヴィング商會著 ちくま文庫
 耳にした事はあるが誰もが見たことがないものを取り扱う商店「ないもの、あります」のカタログである。全26点の商品をイラスト付きで紹介。
 例えば、「舌鼓」。確かに「舌鼓を打つ」と聞いたことはあるが、一体、「舌鼓」とは何か。或いは、「無鉄砲」と聞いたことはあるが、そんな鉄砲は見たことがない。「金字塔」とよく言われるが、そんな塔が存在するのか。このようなものたちが掲載され、読んでいると目からうろこが落ちる。ちなみに、「目から落ちたうろこ」という商品も取り扱っているようだ。
 幻想的なイラストと粋な文章で、我々を日常からほんの少しだけ違った場所へといざなう。
▼『新版 恐竜の飼い方教えます』
ロバート・マッシュ、リチャード・ドーキンス著 新妻昭夫、山下恵子訳 平凡社
 タイトル通り、恐竜を飼育するための手引書。必要な道具や心構えをはじめとして懇切丁寧に解説されているので、初心者でも容易に恐竜飼育者になるための方法を学ぶことができる。
 一言に恐竜と言っても、その種類は数多に及ぶ。本書では、種別の飼育方法についても万全を期しており、「恐竜を飼いたいが、どれがいいだろうか」とページを捲ることについても有用である。世界で唯一の恐竜飼育のガイドブックであるので、それに興味のある者は、本書を通過せずには実践には至れないだろう。
 序文に、「恐竜を飼う者は、昨今の動物愛護の思想における非難を受けることは決してない。なぜなら、既に絶滅しているからだ」みたいなことが書いてあった。このどうしようもない感じが、好きだ。
 ここに紹介しているのは2009年に発行された「新版」であり、旧版は別役実が訳していたので、そっちが欲しいのだが、絶版である。
▼『万国奇人博覧館』
G.ブクテル、J.C.カリエール著 守能信次訳 筑摩書房
 世界各国のあらゆる奇人たちの奇行エピソードのみを集めた辞典。こんなふざけた本、誰が書いたんだと思ったら、『珍説愚説辞典』の人たちだった。フランス人っていうのは、こういうくだらないことに懸ける情熱が桁違いだ。どんな些細なことでも体系化しなければ気が済まないのだろうか。それはいいとして、たぶん世界で唯一の奇人辞典である。
 あいうえお順にインデックスされており、どのように読むかは各人の自由。1ページ目から順に目を通すのもよし、気が向いたときに適当に開いたところを適当な分だけ読むもよし、本棚に飾っておくだけでもよし。2段組で400ページ近くあるので、ものすごい博識に圧倒されながら、暫くは楽しめる。

 ――徳田サネヒサ 1944年に79歳で死んだ日本人。三角形の物にしか興味を示さず、息子のシンスケは展示会を開いて、父が残したオブジェのいくつかを披露した。その中にはいずれも三角形のワイングラスや灰皿、それに煙草盆や米櫃があった。死の少し前、徳田氏は三角形の家を建てるつもりであったともいう。息子はこの父のために、三角形をした墓を立てた。

 ――笑い 1982年4月17日、ロンドンに住むフィッツハーバートという婦人が『三文オペラ』の観劇に出かけた。バニスターという有名な役者がピーチャム役で登場すると会場は爆笑の渦で包まれ、フィッツハーバート夫人もみんなと同様、声を立てて笑った。が、その笑いは止まらなかった。第二幕の終わり近くになっても彼女は依然として笑い続け、周囲から外へ出るように懇願された。これが水曜日の夜の出来事。夫人はそれから三日三晩笑い続け、金曜日の早暁、息を引き取った。
▼『ジョン・ケージ著作選』
小沼純一編 ちくま学芸文庫
 ジョン・ケージがいなかったら今の音楽はなかった、とよく言われる。一般的にクラシックの作曲家として語られる存在だが、その影響力は、音楽と名の付くもの全てに降り注いでいる。
 最も有名であり、ジョン・ケージの音楽に対する姿勢を良く表した作品が「4分33秒」である。楽器は何でも良い。極端な話、なくても良い。演奏者は舞台に登場してから、4分33秒間、何もしない。楽器など演奏しない。時間が経ったら、舞台を去る。それだけの作品である。ジョン・ケージ曰く、この沈黙の4分33秒間に発生したあらゆる音、聴衆のざわめき、咳払い、服が擦れる音、何かを落としてしまった音、それらの一切が音楽になると説明した。屁理屈のような理屈だが、この考えによって、ジョン・ケージは音楽の民主主義化に成功したのだ。
 本書は、ジョン・ケージが著した文章の中から、敢えて音楽論に力点を置かずに選び、まとめられたものである。ページを開いてみればわかるが、原稿用紙という概念を超越した前衛的手法によって書かれている。書き出しの位置がばらばらだったり、文字が斜めになったり逆さまになっていたりする。そのためか、200ページの文庫本にして1100円と、高い。
 「音楽愛好家の野外採集の友」という題の文章では、音楽とキノコの関係について真剣に論じている(「辞書を引いたら、音楽(music)の前にキノコ(mushroom)があった」は、こじつけにしては良くできた名言である)。「ダニエル・シャルルの33の質問に対する60の答え」では、これはもうタイトルからしてよくわからないことになっているのだが、どれが質問でどれがそれに対する答えなのか不明な構成になっている。「われわれはどこで食べているのか? そしてなにを食べているのか?」では、食べ物の話しか出てこない。
 ジョン・ケージ研究家であるならば本書は格好の資料になるであろうが、我々一般人にとっては、かなりエキセントリックな書物である。

 他におすすめありましたら、教えてください。


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