部屋の中。若い夫妻がテーブルを挟んで座っている。
妻 どう?
夫 んー、おいしいよ。
妻 本当?
夫 でも、もうちょっと味濃いほうがいいな。
妻 あら、インドカレーってこんなものなのよ。
夫 でも濃い味が好きなんだ。
妻 いいえ。これで完璧なの。作り方に従って作ったんだもの。文句言うなら料理本に言ってちょうだい。
夫 わかったよ。インドって感じだな。おいしいおいしい。
妻 本当?
夫 うん。おいしいよ。
妻 よかった。
部屋のチャイムの音。
妻 誰かしら。こんな時間に。
慌しく、さらにチャイムの音。
夫 (席を立って)俺、出るよ。
妻 悪いわね。じゃあ、お願い。
夫 (ドアに向かいながら)はーい。(ドアの前で)どちら様ですか?
ドアの向こうの声 突然すいません。入れてもらえませんか。
夫 はい?
ドアの向こうの声 ちょっとかくまってもらいたいんですよ。
夫 いや…
ドアの向こうの声 決して怪しい者じゃないんです。事情はあとでお話しますから。
夫 あの…、どちら様ですか。
ドアの向こうの声 追われてるんです。助けると思って中に入れてもらえませんか。
夫 だから、どちら様ですか。
ドアの向こうの声 どちら様ってわけでもないんですけど…。ご迷惑はかけませんから。
夫 あの…、申し訳ないですけど…
妻 (夫の後ろからやってきて)どうしたの?
夫 いや、なんか…
ドアの向こうの声 助けてください。追われてるんです。
妻 まあ、大変。(夫に)ちょっと、開けてあげなさいよ。
夫 え? だって…
妻 困ったときはお互い様でしょ。
夫 でもさ…
妻 もう、気が利かないのね。(夫を押しのけて、ドアを開ける。男が姿を現す)
男 どうもすみません。
妻 いいんですよ。さっ、中にどうぞ。
夫 おいおい。誰だよ。
妻 知らないわよ。でも、困ってる人がいたらほっとけないでしょ。(男に)気にしなくていいですからね。どうぞどうぞ。
男 ありがとうございます。
3人、部屋の中へ進む。
男 あ、カレーですか。
妻 そうなんですよ。インドカレーってやつで。初めて作ってみたんですよ。夫もおいしいって言ってくれて。(夫に)ね?
夫 ああ。
妻 (男に)よかったらどうですか? まだ余ってるんで。
男 いえ、とんでもないです。
妻 でも、お腹すいてるんじゃないですか? だいぶげっそりしてますし。顔色もあんまり…
男 ええ。でも、いいんです。食べても消化しないですし。
妻 ああ、そうなんですか。(夫に、小声で)どういうこと?
夫 わかんない。
男 いやー、大変でしたよ。もう少しで解剖されるところでした。
夫 解剖…
男 そう、司法解剖ってやつです。仲間に聞いたんですが、あれはひどいらしいですよ。だって解剖ですよ。お腹にメスが…、で、内臓とかが…、ねぇ、わかるでしょ? ことによると、頭もノコギリで…
妻 (顔をしかめて)気持ち悪い。
男 で、逃げてきたんですよ。あー、危なかった。
夫 どうして、その…、解剖…
男 なんか毒盛られたみたいで。で、死んだんですよ。
夫 死んだ? 誰が?
男 私が。
夫 あなたが?
男 そうです。
夫 じゃあ、何で今ここに…
男 逃げてきたんです。
夫 どうやって?
男 こっそり抜け出して、走ってきたんです。
夫 いや、だから…。あなた死んでるんですか。
男 はい。
夫 で、どうやってここに来たんですか?
男 走ってきました。かなり疲れました。
夫 いや。え? どういう…
妻 いいじゃない。ここまで走ってきて疲れてるのよ。それで、うちで休んでる。それ以上どんな説明が必要なの?
夫 だって…、死んでるって…。おかしいじゃないか、何もかも。
妻 でも、現にここにいるのよ。それは事実でしょ? 世の中には私たちのわからないことがたくさんあるの、きっと。
夫 だけどさ…
妻 (男に)そう言えば、お名前聞いてなかったわね。何てお呼びすればいい?
男 名前、ないんですよ。どうがんばっても思い出せないんです。なんかそういうことになってるらしいんです。
妻 あら、そうなの? じゃあ、なんてお呼びすれば…
男 「死体」でいいですよ。そうとしか、呼びようがないし。
妻 わかりました。「死体さん」で。…だいぶ顔色悪いみたいですけど、その…、毒のせいですか。
男 ああ、たぶんそうでしょうね。生半可な毒じゃなかったっぽいですから。いやー、あのときは苦しかったなぁ。でも、もう大丈夫です。顔色は戻ってないみたいですけど、苦しくはないです。
妻 死んでるから?
男 と、思いますよ。
妻 死んでると不思議なことがいっぱいあるのね。
男 みたいですね。…あの、ちょっとここで寝かしてもらっていいですか? ちょっと、眠くなってしまったんで。
妻 いいですよ。そこのソファーでよかったら。(夫に)いいわよね?
夫 ああ、まあ…
男 じゃ、遠慮なく。どうもすいません。(ソファーに横になる。すぐに眠りにつく)
妻 (夫に)さ、食事の続きとしましょう。(イスに座る)
夫 …なんか食欲なくなっちゃったな。
妻 えー、せっかく作ったのにぃぃ。
夫 わかったよ。食べるよ。(イスに座って食べ始める)
妻 それでよし。おいしい?
夫 おいしいよ。
一時暗転。
数時間後の話。テーブルに向かい合って妻と夫。
妻 やっぱりカレーの奥深さっていうのは、香辛料の質よりも量だと思うわけ。そうすれば、複雑な味になるわけでしょ。複雑であればあるほど、みんなもう一度食べてみたくなる。できるだけたくさんのスパイスをぶち込んでやるのよ。カレーなんて、わけわかんない味のほうがきっと美味しいのよ。あなた、私のわけわかんないところが好きって言ってプロポーズしてくれたじゃない。きっとカレーもそういうものよね。そう、人生ってカレーみたいなものよね。あなたにとって私がカレーであるように、わたしもあなたの、…ねぇ、聞いてる?
夫 ……(眠っている)
妻 (夫の方をゆすって)そろそろ寝よっか。
夫 (起きる)ん、あぁ、ごめん、寝ちゃってた。
妻 (男に)死体さん。私たち寝ますけど。
反応なし。
妻 ねぇ、死体さん。(男の身体を揺する)…冷たい!
夫 死体なんだから冷たいだろ。
妻 (男の脈を取る)脈がない!
夫 死体なんだから脈はないだろ。
妻 (男の鼻に手をかざして呼吸を調べる)呼吸もしてない!
夫 死体なんだからしないだろ。
妻 ちょっと! 死んでるわよ!
夫 だから、死体なんだって。
妻 死体さん!(身体を激しく揺する)
反応なし。
妻 ちょっと! 救急車呼んで!
夫 だから、死体…
妻 いや、救急車なんて呼んだら、死体さん、解剖されちゃうわ。
夫 どうでもいいよ。
妻 何よ、その言い方。
夫 だって…
妻 あなた、人間だったら少しは死体の気持ちも考えなさいよ。
夫 言ってることがめちゃくちゃだよ。
妻 どうしよう。…わかった。埋めましょう。
夫 え?
妻 裏山でいいわ。埋めてきましょう。ね?
夫 おい、大丈夫か? しっかりしろよ。なんで埋めるんだよ。
妻 安らかに天国に行ってもらうのよ。
夫 だからって…
妻 あなた、死んだあとに解剖されたいの? 身体がごちゃごちゃに切り刻まれるのよ。
夫 俺はいいよ。どうせ死んだあとだし。
妻 私は嫌なの。焼かれるのですら嫌。…ねぇ、私が死んだら、そっとどこかに埋めてよね。
夫 なんでだよ。
妻 私のこと愛してる?
夫 …愛してるよ。
妻 だったら、どこか思い出の場所に埋めてよね。約束よ。
夫 …わかったよ。でも、それとこれとは話が違うだろ。
妻 予行練習だと思えばいいじゃない。
夫 何だよそれ。理屈になってないよ。
妻 いいから。…ああ、そうだ。押入れに寝袋があったでしょ。あれに入れて運びましょう。ちょっと持ってきて。
夫 はいはい。わかったよ。
夫、寝袋を持ってくる。
妻 (寝袋を広げる)ちょっと小さいかもしれないけど、ま、入るわね。(夫に)死体さんの足、持ち上げて。
二人、男を寝袋に収納する。
妻 入った入った。じゃ、行くわよ。
夫 どこに?
妻 埋めによ。決まってるじゃない。
夫 今から?
妻 善は急げって言うでしょ。この時間なら、誰にも見つからないだろうし。
夫 めちゃくちゃだよ、言ってることが。
妻 身体のほう持って。私、足のほう持つから。
二人、寝袋に包まれた男を持ち上げる。
妻 じゃあ行くわよ。
二人、ドアのほうに進む。一時暗転。
翌日の夕食時。
部屋の中。二人、テーブルを挟んで座っている。
妻 どう? おいしい?
夫 ああ、でも、なんか味がごちゃごちゃしてるな。
妻 あら、カレーってごちゃごちゃした味のほうが美味しいのよ。ありとあらゆるスパイス入れたんだから。
夫 味にまとまりがないよ。
妻 そこがいいのよ。これが本場の味よ。
夫 そうなの?
妻 ねぇ、おいしい?
夫 じゃあ、おいしいよ。
妻 でしょ? 自信あったもん。
部屋のチャイムの音
妻 誰かしら。ちょっと見てくる。(席を立って、玄関のほうへ行く)
しばらくして、妻、知らない男を連れて戻ってくる。
夫 誰?
妻 わかんないけど、逃げてきたんだって。
男2 おじゃまします。
夫 はあ…。
男2 ここに来ればかくまってもらえるって噂で聞いたんで。…危うく司法解剖されるところでした。
妻 (男2に)カレーでもどうですか。自信作のカレー。おいしいですよ。(夫に)ね?
夫 ああ。
妻 あ、でも消化できないんでしたっけ?
男2 ええ、死体ですから。
チャイムの音
夫 俺が出るよ。(玄関のほうへ行き、ドアの前で)どちら様ですか。
ドアの向こうの声 逃げ出してきたんです。助けてください。
夫、ドアを開ける。と同時に大勢の人が部屋の中になだれ込んでくる。
夫 (人々に押し流されながら)おい、ちょっと…
妻 何! この人たちは!
夫 知らないよ。
部屋の中の人々、勝手にしゃべり始める。…危なかった。…もう少しで解剖されるところでした。…噂で聞いたんです。…助かります。…カレーですか? …なんか眠くなってきたな。
雑然の中で、二人の会話。
妻 どうするの? こんなに大勢。
夫 仕方ないよ。
妻 仕方なくないわよ。
夫 だって、困ったときはお互い様だろ?
妻 今、困ってるのは私たちなの!
夫 だから、お互い様だろ。
妻 …そうね。
夫 そうだよ。
完