人と鳥とカンガルー

 例えば、ある日、友人がこんなことを言ってきたとしたらどうだろう。

 「なぁ、知ってたか? 人間って、脚を切断されたり、脚にとてつもなく重いものを縛り付けられたりすると、歩けなくなるんだ」

 恐らく我々は例外なく、「何を言ってるんだ、こいつは」と思うだろうが、それは当然である。我々は生まれてから何千人、何万人にも上る「人間」を見てきたであろうが、深く考えるまでもなく、全ての「人間」が脚で歩いていることを観察あるいは経験上知っている。そして、二足歩行によって歩いていることも知っており、その運動の直接の起源である脚がなくなったり、外部的及び内部的要因により不能になったりすれば、歩くという行為は不可能になるであろうことも誰にでも予想できる。すなわち、「人間が、脚を切断されたり、脚を屈強なもので固定されたりすると、歩けなくなる」などということは誰でも知っているのであり、改めて言うほどのことでもないのである。そういった意味で我々は「何を言ってるんだ、こいつは」と思うのである。
 しかし、これは危険なことである。ソクラテスは「私は自分が何も知らないことを知っている」という思想を発明し、現代に至るまでその考えは絶賛されているが、ここで我々はその思想に立ち返らなければならない。つまり、「人間は本当に脚で歩いているのか」と疑ってみることである。「だって、明らかに脚で歩いてるじゃないか」とソファーに腰掛けながら嘲笑混じりに悠々と言っている者は、堕落からは抜け出せない。そればかりか、風に舞うスーパーの袋のように情報化社会に翻弄され、挙げ句の果てには「ガセビア」をしたり顔でフジテレビに送り付ける結果となってしまうのである。何となく漠然と知っているような雰囲気に浸っているうちは駄目なのである。

 別役実氏の著書に『鳥づくし』というものがある。これは、氏の鳥についての博識を遺憾なく披露した26の文章によって構成されているものであるが、その中に次のようなタイトルの文章がある。

 「カンガルーは鳥ではない」

 初めてこれを目にしたとき、僕は「何を言ってるんだ、これは」と思ってしまったのであるが、それは僕が愚かだったからである。僕は「カンガルーが鳥ではない」ことを当然に知っていたのだが、それ故、「カンガルーが鳥ではない」ことを全く疑っていなかったのである。これが危険なことなのだ。
 すなわち、その著書によれば、「カンガルーが鳥ではない」ことを知るためには、「カンガルーが鳥ではないとは知らなかった」ということを一旦認め、さらには「カンガルーは鳥かもしれない」という疑惑を抱かなければならないのである。そして、「カンガルーが鳥ではない」ことの証拠を集め、検証することにより(氏は「カンガルーには嘴がない」ことがわかりやすい手がかりだと言っている)、初めて我々は「カンガルーは鳥ではない」ことを知ることになり、それを新たな知識として得ることができるのだ。
 これは非常に大切なことであり、真の意味で知るとはこういう手続きを経ることが要請されるのである。

 レオン・ペルヴァンキエールという人物が1903年2月に「ルヴュ・エブドマデール」という雑誌に寄せた文章には次のように書いてある。

 「捕らえて地面に置いた雨燕(アマツバメ)が飛ばない理由は、恐らく当の鳥の状態に存している。怪我をしたか、数日餌がない日が続いて体力を消耗したか、あるいは何らかの理由で翼が傷ついたか。前に引用した二人の著者(ガルとマンゴー)の実験によれば、六十平方センチある雨燕の翼を十から二十平方センチ切り取ると、雨燕は飛べず、空中に投げても地面に落ちてしまうことが判っている。同様に、十二から十五グラムの錘(おもり)を附けた雨燕も飛ぶことができない。
 要するに、怪我をしていない成鳥の雨燕なら、着地した後も飛び立つことができるのである」

 鳥が飛んでいるのを見たことがある者であれば、誰でも鳥が翼を使って飛んでいることを知っている。それは幼児でも同様であり、彼らは大人ほどに知能は発達していないものの、空という三次元空間を自由に移動している鳥を見て、「もしかしたら、僕でも手をばさばさやれば飛べるかもしれない」と思い立ち、鳥の真似をしてみることが一度はあるのである。もちろん、人間は空を飛べないのだから、手をばさばさやっても鳥のようにはならないのだが、だからと言って、鳥が翼をばさばさやって飛んでいることの確信は揺らぐことがない。人間には鳥と同様の翼がないのであり、鳥には翼があることを、見れば知ることができるからである。そして、「もしかしたら、ジェットエンジンによって鳥は飛んでいるのかもしれない」などという疑問を抱くこともなく、少しは抱いたとしても義務教育課程の中で忘れられてしまい、そのまま成長していくのである。我々は鳥が翼によって飛んでいることを当然に事実として疑うこともなく過ごしていく。
 しかし、レオン・ペルヴァンキエールの文章によれば、ガルとマンゴーは実験によって、翼を切り取った鳥が飛べないこと、及び、翼に重りを付けた鳥が飛べないことを実証したのである。我々の感覚からすれば一見無駄に見えるこの実験は、動物学的に多大なる貢献を果たしたかどうかは別として、彼らを人間的に格段に成長させたに違いない。彼らは「鳥は翼によって飛んでいないのかもしれない」という疑問を提示し、自らの実験の結果、「鳥はやっぱり翼によって飛んでいたんだ」という事実を知ることができ、またそれに対する感動を得たであろうからである。

 冒頭の「人間は、脚を切断されたり、脚を屈強なもので固定されたりすると、歩けなくなる」ということを、真の知識として獲得し、人間的な成長を達成するための第一歩にしようとしている者は幸運である。なぜなら、我々は人間だからである。鳥を捕獲して、翼を切り取ったり、重りを付けたりなどという煩雑且つ残酷な手続きを踏む必要はないのである。すなわち、その会話は次のように展開されるべきである。

 「なぁ、知ってたか? 人間って、脚を切断されたり、脚にとてつもなく重いものを縛り付けられたりすると、歩けなくなるんだ」
 「マジかよ、知らなかったな」
 そう言って立ち上がり、数歩前進してみる。この際に重要なことは、自分の脚以外の何物の力も借りず、まさに自分の脚だけで前進し、脚以外のものを用いては歩けないことを心から実感することである。
 「本当だ。僕は今、自分の脚のみによって歩けている。すなわち、この脚がなくなったり、脚に何か重いものを縛り付けられたりしたら、決して歩くことはできないな。いやぁ、いいことを教えてもらったよ」

 これが、我々が我々自身を成長させるための最も手軽にして直接的で効果的な方法である。

 追記:
 以上の文章を僕がウェブ上に発表すると、即座に友人からある指摘を受けた。参考までに、以下にその全文も掲載しておく。

 ガルとマンゴーの実験には、論理的に実験結果を考察に結びつけるための証拠が、いくらばかりか足りないと言えることができると思う。
 彼らの行った実験とその結果から得られる考察をレオン・ペルヴァンキエールの文章(から引用した本文)を元にまとめると、以下のようになる。

 1. 六十平方センチある雨燕の翼を十から二十平方センチ切り取る。すると雨燕は飛ぶことが出来なかった。よって、翼を33%失った雨燕は飛ぶことが出来ない。

 2. 十二から十五グラムの錘(おもり)を附ける。すると雨燕は飛ぶことが出来なかった。よって雨燕は、十二から十五グラムの錘を附けた場合、飛ぶことが出来ない。

 実験1に関しては、飛ぶことが出来ない要因が、翼を失ったことであることを証明するためには、雨燕が翼を失ったこと以外に、雨燕には変化がなかったことを説明しなければならない。雨燕から翼を決定した量除去したときに、出血はなかっただろうか。もし多量の出血があった場合、雨燕が飛べないことの要因は出血によるものかもしれない。もしくは、翼を除去することで生じた体重の変化は、雨燕が飛ぶことに影響しなかっただろうか。
 実験2についても同じことが言える。錘をつける位置は、雨燕が飛べるか飛べないかを左右することにならないだろうか。足に附けた場合、頭に附けた場合、翼の片側だけに附けた場合など、錘の設置位置を変えることによって、実験結果は普遍であることを証明する必要がある。


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