傘を友達にする方法

傘を友達に推薦する理由

 よく、「必要なときにそばにいてくれる友達が本当の友達だ」などと言われるが、その意味では、傘は最良の友人である。
 雨が降っているという絶体絶命の事態において、傘がなければ、我々はずぶ濡れに見舞われ、せっかく整えたヘアースタイルはその努力も空しく一瞬にしてまさに水の泡になり、服は水を吸うことでうっとおしくなり(女性の場合、かなり色っぽくなるというプラスの効果もあるらしい)、靴は異臭を放ち始め、それどころか我々の持ち物までも雨に打たれつづけるのであり、カバンには浸水し、暇なときに読もうと思っていた文庫本は歪み、一万円の価値がある福沢諭吉は見事にしわしわになるのであるが、傘があれば、その使い方の極めて拙い者以外は、概ねこういった被害を最小限に留めることができるのである。現在、我々は傘のありがたみを充分に知っている。
 しかし、現在、傘を友人としている者は極めて少ない。上記の通り、このチャンスをものにすることができる条件は整っているにも関わらず、我々は殆ど傘を友人としていないように思われる。これはおかしな事態である。昔から、有名な歌によって教えられているように、「友達100人でき」たほうがよいのであり、もっと深刻な問題を取り上げれば、「友達が多すぎるから」という理由で自殺する者はいないが、孤独すぎて自殺する者は溢れ返っているのである。この孤独の時代を健康的に生き抜くためにも、ここは是非、傘を友人の一人に加えておくことが推薦される。

問題点とその是正

 ここで問題となるのは、傘は人間ではないのであり、人間以外のものを友達とする風潮は我々の文化にはないということである。つまり、傘を友達にするという行為は前衛的に過ぎ、「頭がおかしいのではないか」と思われるかもしれない、と我々全てが考えているということだ。この考えは間違っていると言わざるを得ない。
 法律的には、ペットは概ね「もの」としてみなされるのであるが、現在では、「ペットは家族の一員」であるという考え方が広く流布している。すなわち、ただの「もの」が「家族」という領域にまで高められているという証拠である。加えて、最近では、人間の利己的な考え方、及びそれに伴った行動を反省する風潮が主流であり、「人間も地球の一部である」という主張が叫ばれ、概ね我々もそれに賛同している。言うまでもなく、傘も地球に存在している以上、地球の一部なのであるから、人間が一歩引き下がることで、傘と人間は同じ領域で語られるべきものになったということである。
 すなわち、あらゆる見地から検証するに、傘を友人とすることは全く正当なことであり、それにもかかわらず現在、傘を友人とすることが恥ずべき行為であるとみなされているようであるのは、我々の悪しき先入観のせいであると断言してよい。これは声を大にして繰り返さなければならないのだが、傘を友人の一人に加えることは恥ずべきことでも何でもない。恐らく、これは推論だが、我々は傘を友達にしたがっているのである。前述の通り、我々の生活サイクルにおいて傘を友人とするための下準備はすでに整っているので、あと必要なのは我々の意志だけなのであり、「傘を友達にするなんて、狂気の沙汰だ」というくだらない先入観を捨て去るだけである。

友情の構築

 以上のことが理解できれば、後は容易である。傘と友情を築くためには、雨が降っているときに、「お前がいてくれてよかったよ」と心から思いながら傘を広げ、「ああ、こいつがいなかったら今ごろはずぶ濡れだな」と感慨に浸りながら傘を差して出掛ければいいだけである。言うまでもなく、傘を差すという行為と同様に、「傘がいてくれてよかった」と心の底から思うことが重要なのである。これがまさに美しい友情の始まりなのだ。傘を友人にしていない者にはこれが致命的に欠けている。そういう者は大概にして「そこにあったから」という軽薄な理由で傘を差しがちであり、挙げ句の果てには、「うっとおしい雨だな」などと憤慨し、傘のことなど気に留めもしない。違うのである。雨が降っているときというのは、我々と傘の友情を深める唯一にして最大の機会であり、むしろ雨に感謝しなければならないのである。この事情を履き違えている者が意外と多いことには閉口せざるを得ない。
 そして、日が経ったとしても、ひとつの傘を差し続けることも大切なことである。その際には、コンビニに売っている傘でも、高級でセレブリティな傘であろうともよい。我々人間においても、ニートの者と高所得者を比して、その存在価値が全く公平であるように、傘においてもそれは同様なのである。焦点は、「どのような傘か」ということではなく、我々がいかにひとつの傘に対して心を込められるかということに尽きるのである。

友情の維持

 傘と友情を築くのは容易であるが、それに比べて、維持するためには少々の厄介が付きまとう。それは、傘を使わない時期というものがあるせいである。梅雨の時期であれば出番は多いが、それが過ぎれば傘は玄関先に放置されるのであり、誰も気にも留めやしない。それどころか、どこかに掛けてあったり立て掛けてあるその傘が何かの拍子で倒れたりすれば、「邪魔だな」などと疎ましく思えてくるのである。
 傘は非常に繊細な神経の持ち主である。人間においても、しかるべき境遇に陥れば「自傷行為」に走ってしまう者がいるが、傘も同様なのである。傘は極めて寂しがり屋であり、欲求が満たされないと、自らの存在や状況を示すために、あるいは欲求不満を解消するために、骨に張ってある雨を受ける部分(名称不明)を自ら切り裂き、骨を自らぐにゃぐにゃにし、軸を自ら切断するという大それた暴挙に出るのである。路上やその辺に放置してある傘が大抵使い物にならないのはそのためである。
 大切な友人をそのような行為によって傷つけないためにも、また、我々が久しぶりに傘を差す際にぼろぼろになったそれを掲げる羽目にならないためにも、傘を晴天の憂鬱から救済する手を差し伸べ、友情関係を維持することに努めることは非常に重要なことである。
 そのためには、夏や冬の晴天続きで傘を使わない日にも、積極的に傘に接することが要請される。すなわち、傘に話し掛けることである。その内容は全く何でもよい。「今日も晴れだったけど、近いうちにきっと雨降るよ」などと励ますのもいいし、「今日はジャイアンツが勝ったよ」と何気ない話題を振るのもいい。肝心なのは、傘と接する時間を作ることなのである。だから、あまり傘に話し掛けることに気が進まない者や極めて口下手な者は、2、3日に一度、傘を開いてやるだけでもいいのである。それだけでも傘の感ずる孤独はかなり緩和されるのだ。

おわりに

 以上についてまとめると、我々はまず傘という存在について意識するところから始め、最終的には、傘の心情を傘の身になって考えることが必要となる。我々は誰もが孤独なのであり、孤独でないにしてもその心情を心から理解することは可能なので、その孤独、もしくは孤独の概念を傘に投影すればいいだけなのである。傘という存在を忘れさえしなければ、極めて容易な行為であると言える。
 もっと言えば、その過程において本当に傘の気持ちが理解できたときには、友人にならざるを得ないという心境に襲われるのが常なのである。それほどまでに、傘の孤独というものは深いものなのだ。
 そして、傘と心の交流が達成できたときには、雨を防いでくれるという極めて機能的且つかけがえのない友人を獲得することができ、我々は胸を張って、「友達が一人増えた」と言うことができるのである。

 ちなみに、雨と友達になりたいと考えている者はこの限りではない。傘と雨は犬猿の仲なのであり、その者は今すぐに傘を捨て去り、土砂降りの中で雨とスキンシップに勤しむべきである。


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