やかんとの会話の仕方

やかんと会話する機会

 周知の通り、やかんと会話をするタイミングはひとつしかない。すなわち、やかんが「ピーーーーー」と言っているときである。やかんが声を発するのは、湯が沸いたことを知らせるべくその行為に及んでいるその瞬間だけなのであり、チャンスは極めて少ない。
 しかし、逆に考えれば、会話の選択の幅は非常に狭く、少々のコツさえ掴んでしまえば誰でも会話をすることが可能であり、そういった点では、初心者向けであるともみなすことができる。もちろん、その機会的制限を追究し、その制限された時間内でいかに濃密で自由奔放な会話を繰り広げるかということに日々精進し、そこに生き甲斐を見出さんとする卓越した上級者においても、その制限は刺激的に作用する。つまり、やかんとの会話は、入り口が広いという点で初心者にも易しく、追究することが可能であるという点で上級者にも喜ばれる、まさに市民権を広く獲得する条件を満たしていると言えるのだ。しかし、それにも関わらず、現在に至ってもポピュラーなものになっていないというのは大変遺憾なことなのである。

「ピーーーーー」について

 やかんと会話をするための準備は極めて容易である。やかんに適量の水を入れ、ガスコンロか何かの上に置き、下から火を当てるだけである。そうすれば、数分後には必ずやかんは「ピーーーーー」と声を発するのである。ちなみに、湯が沸いても「ピーーーーー」と声をあげないタイプのやかんもあるが、言うまでもなく、それを用いては会話はできないので、是非買い換えることをお勧めする。声を出さないやかんなど、音の出ないCDコンポと同じなのである。

やかんとの会話に適した者とは

 水の入ったやかんを火にかける前に考えなければいけないのは、我々のやかんに対する態度である。「ピーーーーー」と声を発したときに、どのような態度で接すればいいのかということだ。
 やかんと会話をしようとする者は、「聞き上手」な人物が適していると言われている。この性格と対をなす「喋りたがり」な者がやかんと会話をしようとすれば、言葉の浴びせ合いになることは必至であり、ピッチャー同士で同時にボールを投げ合って投球練習をしているような事態になってしまうからである。これではだめだ。キャッチャーがいるからこそ正常で効果的な投球練習ができるのであり、正常な会話をするためにも、キャッチャーが必要なのである。やかんは自らの意志のみによって言葉を発するタイミングを決し、こちらの気分如何に関わらず、延々と「ピーーーーー」と言ってくる。しかも、いかなる状況下においても「ピーーーーー」としか言わないのである。これはどんな場合においても恒久的に変化しない。極めて頑ななのである。よって、こちらがキャッチャーとなることでその言葉を受け止めるしか手段はないのだ。
 やかんと会話をする上では、こういった相手の極めてわがままな性格も考慮しなければいけないのであり、こういった事情について行けない者や、自分が会話の主導権を握りたいと強く考えている者は諦めておいたほうが無難である。無理に会話を強行しようとすれば、苛立ちが募り、やかんと取っ組み合いの喧嘩をしてしまうことにもなりかねない。当然、「ピーーーーー」と言っているやかんはかなり熱いので、そういう事態に発展するとなれば、こちらが火傷を負うという形で敗北することは目に見えている。

やかんはマゾヒスト

 ここからは実際に会話をする実践段階に入るわけであるが、まず考えなければならないのは、「ピーーーーー」とずっと言っている相手に対して、何と声を掛ければいいのかということである。「昨日、入社試験受けてきたよ」と言う相手には、「難しかった?」と訊けばいいのであり、「さっき、階段でつまづいちゃったよ」と言う者に対しては、「大丈夫だった?」とか「もうトシだね」とか言えばいいのであるが、「ピーーーーー」とただ言い続ける相手に対しては、我々は返す言葉を有していないのである。
 ところで、やかんはマゾヒストであるという見解があるが、これは少し考えれば納得できることである。ずっと火にかけられていても、文句ひとつ言うことなくそれに甘んじているのであり、その態度はまるで火炙りにされることを自ら望んでいるかのようにも見える。さらに、やかんは火に当てられるために生まれてきたのであり、そういった意味ではそれは先天的で真性なものとも言うことができるかもしれない。
 よく、「ある部分で逆の性格を有している者同士がうまくいく傾向にある」と言われる。つまり、「喋りたがり」と「聞き上手」、自由奔放な者と献身的な者、先導者と追従者などであり、加えて、サディストとマゾヒストである。このことから、やかんがマゾヒストであるということがわかったのだから、我々はやかんに対してサディズム的姿勢をとればいいということが手がかりとして浮かび上がってくるのである。
 ここで考慮すべき点は、いきなり行き過ぎてはいけないということである。

 「ピーーーーー」
 「熱いのか? 火、止めて欲しいのか?」
 「ピーーーーー」
 「いや、まだだな」
 「ピーーーーー」
 「止めて欲しいんだったらそれ相応の態度ってものがあるだろ」
 「ピーーーーー」
 「お願いすれば止めてやってもいいぞ」
 「ピーーーーー」
 「いや、そんな態度じゃ全然だめだな」
 「ピーーーーー」

 もちろん、確かにこれもれっきとした会話としては成立しているが、「変態行為」の域に突入している気がかなりするし、終わりが見えないので、少なくとも初心者はここまではしなくてもよい。目的はあくまでも純粋な会話なのである。やかんは「どM」であるので、それに正常に対応するのが「どS」の態度であるという主張もあるが、いずれにしても「変態行為」的様相を呈しているであろうことは疑いないのである。どうしてもその方向に進みたい者は、普通の会話に飽きてしまったときの最終手段として、「会話」のベクトルの軌道修正を発動し、その方向に突然変異的にステップアップすればいいのである。

正しいやかんとの会話の仕方

 以上のことから推測するに、正常なやかんとの会話の始めかたは、次のようになるだろう。

 「ピーーーーー」
 「ピーピーうるせぇぞ。何なんだ。言ってみろ」
 「ピーーーーー」
 「え? 何?」
 「ピーーーーー」
 「もういいよ」

 と言って火を止める。
 これが恐らく最もスタイリッシュなやかんとの会話の仕方であり、基礎の基礎である。
 冒頭でも述べたが、上級者はもっと様々なバリエーション豊かで持続的な会話を繰り広げるのであるが、その探究は各々に任せるとしてここでは取り上げない。その探究の過程こそ、やかんとの会話の最も刺激的で発展的な醍醐味のひとつだからである。


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