初雪と逃亡

 初雪だ。天気予報通り、朝から雪が降っていた。
 そして僕は今、逃げている。何から逃げているのか。家からである。もちろん、家が僕を追いかけてくるはずはない。家に戻るまいとして、家から遠ざかっているのだった。

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 新店の援助のため、いつもより早起きして、その場所に向かった。タイヤを替えていないので、運転は自ずと慎重になる。途中の上山あたりはかなり降っていた。
 援助と言っても、オープンから数日経っているため、暇だった。他にも援助者が二人いたが、実際、全く不要だった。従って、雪がいよいよひどくなってくると、少し遠くから来ていた僕は帰らされた。まだ午後3時だった。6時間しか働いていないが、帰った。

 明日は休みだし、夜はすることもないので、映画でも見ようかと、レンタルビデオ店でうろうろしていると、携帯電話が鳴った。エンドウさんからだ。

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 エンドウさんは、僕の直属の上司である。33歳、男性、独身。誰もが思っているであろうことを言えば、彼は禿げている。それはどうでもいいとして、彼にはリーダーシップのかけらもない。全く上司らしくないし、優柔不断の塊だし、お世辞にも仕事ができるとは言い難い。そういう悪い意味で、エンドウさんは全社的に名を広く轟かせている。「活気がない」とか「話に要点がない」とか、根本的な部分を上長に指摘されていたこともあった。他部門のマネージャーに「あいつ馬鹿だよね」と言われていたこともあった。僕も陰では「エンドウくん」とか「エンドウ」とか「あいつ」と呼んでいる。
 数々のエピソードはあるが、それは割愛するとして、エンドウさんはそういう駄目な人なのである。

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 「もしもし、エンドウですけど、こんな時間にすいません」
 こんな時間って、まだ夕方だ。彼はいつも僕に敬語で話す。以前、背後から「エンドウさーん」と呼び掛けたところ、「はいっ」と声を裏返しながらびくっとして振り向いたことがあった。僕を恐れているのか、彼は。
 エンドウさんは電話口で、「この雪のせいで家に帰れない。帰れたとしても、タイヤを替えていないので、明日出勤できそうもない。どこか泊まる場所はないだろうか」という旨を僕に告げた。エンドウさんは実家住まいだ。職場からは結構距離がある。
 つまり、こういうことである。
 「いやーあのー、さっき家から電話かかってきまして、あの、こっちのほう雪すごいからお前帰ってくんなよーなんて、あの、言われちまいましてー。いやー雪がすごいらいしんだわ。で、あのですねー、くだらないことなんですけど、こっちに、あの、泊まる場所なんて知らないですかね。お前絶対帰ってくんなよなんて言われちまいましてねー。いや、帰っても明日出勤できないだろなんて言われて。あの、俺、泣きそうになって、うわーと思って、いや、どうしたらいいのかと思って、いやあの、電話したんですよー」
 こんな感じが、10分くらい続いた。僕はその間、「はあ」と「知りません」しか言っていない。
 また何かあったら電話しますと言い通話を切った彼の希望を、僕は見抜いていた。本人の口からは一切出なかったが、彼はうちに泊めてもらおうとしている。

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 以前、エンドウさんを泊めたことがあった。飲み会があった夜だった。泊めてくれるとありがたいと言うので、受け入れたのだった。
 エンドウさんは無口な人だ。様子を見ていると、内弁慶なようなのだった。もちろん、それが悪いことだと責めるつもりはないし、どちらかというと僕の性格も内弁慶な傾向にあるだろう。ただこの日、問題だったのは、彼の「内」に僕が入っていなかったということだ。そもそもエンドウさんとは、職場でも必要以上のことを話すことは滅多になかった。
 僕のアパートにあがったエンドウさんは、殆ど何も話さず、ちょこんと座っていた。僕も口下手なりに、話す話題がないなりに果敢にも何かを喋りかけるのだが、返ってくるのは「ああ」とか「はあ」とかばかりで、全く会話が成り立たなかった。互いに気を遣い合った微妙な空気が部屋に停滞していた。仕方ないので、僕もわけがわからなくなってしまい、Tommy february6のDVDを延々と見せておいた。エンドウさんは無機質な目でTommy february6を眺めていた。
 どちらが悪いのでもないのだ。僕が悪いのでも、エンドウさんに落ち度があったわけでもなく、人としての相性が合わなかっただけのことだ。ただ、相性の合わない人と二人きりで同じ空間にはいたくないのだった。
 このままでは、二人してちょこんと座ったままで夜が明けてしまうと危機を感じ、エンドウさんに風呂を勧め、僕は匙を投げるように「寝ます」と言って横になったのだった。

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 危機を感じていた。エンドウが来るぞ。エンドウがまた泊まりに来る。
 電話が切られた後、僕は急いで家に帰り、宿泊者に対して失礼でない程度に部屋を片付け、ワイシャツにネクタイ姿から私服に着替え、知人に連絡をし、準備を着々と整えていった。逃げる準備である。外では依然として雪がもさもさと降り積もっていた。積雪の中に飛び出していくリスクを背負ってまでも、エンドウさんと同じ空間で同じ時間を過ごすのはごめんだったのだ。

 案の定、午後8時頃、電話が鳴った。仕事を終えつつあったエンドウさんからだった。彼がこんな時間に仕事を終えるのは珍しい。大抵、閉店間際まで何らかの仕事をしている。
 エンドウさんは、「ビジネスホテルはどこも満室、知り合いには宿泊を拒否された、どうしよう、泣きそうだ」という旨を僕に伝えた。
 彼は明らかに僕の家に泊まりたがっている。彼のすごいところは、自分の口からはそれを一切出さないところである。「どうしよう、困った、泣きそうだ」を電話越しに繰り返すばかりだ。意中の女性を泊まりに誘うとか言うのなら、そこに幾許かの躊躇や不安があるというのは理解できるのだが、なぜ自分の部下に泊めてくれと言うことができないのか。この人は一生結婚できそうもないなと改めて思った。
 僕も鬼ではない。仕方ないので、「じゃあうちに泊まりますか」と提案してみると、エンドウさんは待ってましたとばかりに、あたかもそれが自然な流れであるかのように、声を明るくして「あ、お願いしまーす」と言った。
 僕は、一言付け加えた。「ただ、僕、これから出かける用事があるので、部屋、自由に使ってください。風呂とかシャワーとか布団とか、自分の家のように使ってもらって構わないんで」と言うと、「あ、わかりましたー」と呑気な声が返ってきた。実は出かける用事なんてないのだが。

 エンドウがいよいよ来るぞ。準備はしてあったので、僕はそのまま家を出た。エンドウさんが入退室するのに難儀するかと思ったので、鍵はかけずに家を出た。どこに行けばいいのかわからなかったが、とにかく家を出た。
 同僚の人に電話をかけて、「こういうわけで、俺、逃げるから」と言うと、ひとしきり笑った後で「笑うことしかできなくてごめん」と返ってきた。本当だ。何でエンドウのために僕が雪の中を、タイヤも替えていない車で、行く当てもなく彷徨わなくてはならないのか。不条理だ。笑うしかないじゃないか。

 コンビニに車を停めてタバコを吸っていると、エンドウさんから再度、着信があった。
 「とりあえず、家に着いたんですが、これからカトウくん巻き込んで、居酒屋に飲みに行くんで帰り遅くなりまーす」
 呑気な奴だ。カトウくんとは、以前うちの店にいた新入社員だ。エンドウさんは、カトウくんにだけは異様に態度がでかい。
 帰りが遅くなるも何も、僕は今夜、家に戻らない。なぜなら、逃げているからである。

 そう、逃げているのだ。雪は降り止まない。明日も雪だそうだ。
 藁にもすがる思いで連絡した知り合いが、アルバイトが夜11時頃に終わるというので、それまでなんとかして時間を潰そう。「こういうわけで、逃げているんだ」と話すと、彼女もかなり笑った。
 エンドウさんは今頃、呑気に酒でも飲んでいるのだろうか。この雪は、一体どういう理由で僕に降り積もり続けているのか。僕は一体どういう気持ちで今夜、逃げればいいのだろうか。  とりあえず今は、逃げ続けるしかないのだった。


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