コーヒーは呪縛

 コーヒーを買いに行く。マキシムのエスプレッソが良かったのだが、なかったので香味焙煎深煎りにした。
 よく考えてみれば、「ブラックコーヒー」と言われるように、コーヒーは黒い。世界中で黒い色をした飲食物というのは、思いつく限りでは、コーヒー、イカスミ、黒砂糖くらいしか私は知らない。
 イカスミに関しては、イカスミパスタを例に挙げれば、誰もが抱く第一印象として、「黒いな」というのが挙げられる。当たり前のことのように思われるかもしれないが、これは特別なことである。我々は、例えば白米を目の前にして「美味しそうだな」とは思うものの、改めて「白いな」とは思わない。同様にして、サラダを目の前にして「サラダだな」という感想は抱くものの、「緑だな」という感想は意識の表面上にまでは上って来ないのではないだろうか。
 黒という色は、食べ物とはあまり結びつかない色である気がする。
 イカスミパスタに話を戻せば、「黒いな」と思うと同時に、「なんだこれは」という疑念みたいなものも同時に襲来する。「とりあえず料理らしいが、美味しいのかどうかわからないし、メニューにあったので食べることができるらしいが、本当に食べることができるのかどうかもわからない」といった具合だ。もちろん、イカスミパスタは今となっては市民権を得ているので、パスタ屋に行って、よくわからないがイカスミパスタというものをオーダーして、真っ黒なそれが出てきたところで、客がその黒い色を見て「客にこんなものを食べさせようってのか」と激昂してそのまま帰ってしまうようなことはまずないが、イカスミパスタ初心者にとってはその料理を見て、2センチくらい後ずさりするということは必ずあるであろう。イカスミパスタ上級者においても、イカスミパスタを食べるべく店に入り、イカスミパスタを注文し、当然ながらイカスミパスタが出てきたとしても、それを見て多少身構えるということはあると、私はイカスミパスタ上級者ではないが、ほとんど確信する。色は本能に訴えかけるのだ。
 上記のイカスミの例にしてもそうだし、料理に失敗した末の「焦げ」が黒い色であることもそうであるが、黒い色の食べ物は、「何だか異様である」という心象を我々に残す。だが、黒砂糖は違う。黒砂糖は甘いのである。人々は甘いものの前には無条件で降伏する。しかも、白い砂糖よりも高価であり、深い味わいがある。これは一種の魔法のようなものではないかと私は考える。
 とすれば、コーヒーとは何だろうか。甘いわけでもないし、はっきりとした味があるわけでもない。香りがいいらしいが、いまいちよくわからない。増して、禍々しきあのどす黒い色である。
 私もコーヒーが好きで一日に必ず一杯は飲むことになっているが、なぜ飲んでいるのかさっぱりわからない。味音痴を自認するが、コーヒーはいい物をとなぜか思ってしまい、インスタントコーヒーの中では高価な部類に入る香味焙煎を買ってきてしまった。
 黒砂糖が甘みを根拠にした魔法であるとすれば、コーヒーは恐らく苦味を根拠にした呪いである。苦味というのは、我々の味覚においては殆ど異物として認識され得るものだが、コーヒーはその唯一といってもいい例外なのである。焙煎する過程で苦味とともに非科学的な成分が生成され、飲んだ我々を呪縛するのだ。コーヒーに含まれるカフェインには重度な依存性はないので、「苦い」上に「黒い」コーヒーに人々がこんなにも執着する理由としてはやはり呪いしか考えられない。そのコーヒーが高価であればあるほど、呪縛の程度は高いことになるのだろうと思う。コーヒーの製造元は、決して公表はしないが、そうしてその価格を決定しているに違いない。そうして呪われた私は香味焙煎を買ってきたし、それを飲みながらこれを書いている。
 魔法にしろ、呪いにしろ、それは非現実的なものである。非現実に踊らされないためには、現実を確かめ、それに埋没する必要がある。手がかりはイカスミにあると私は考える。イカスミパスタが出されたときに、その色を見て本能的に少し身構える、その感覚。その感覚こそ、ふと現実に立ち返る瞬間であろう。もっと徹底して大袈裟に行うのであれば、その黒い食べ物が出された時に10秒くらい唖然として固まり、しかる後に料理長を呼び、「これは黒いですが、食べられますか」と聞いてみるのもいい。当然ながら、「食べられますよ」と返って来るであろうが、それでいい。我々は現実を、自らの正しい感覚の上に確かめたかっただけであるからである。
 カフェに行ってブラックコーヒーをオーダーし、当然の如くブラックコーヒーが出てきたのを見て唖然とし、カフェのオーナーに「これは黒いですが、飲めますか」と聞くことができるようになれば、彼は呪縛から解放されたと言っていいだろう。


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