歯医者

 歯医者に行ってきたのである。考えてみれば、歯医者というのは「歯を治す人」のことであり、従って、「歯医者に行ってきた」というのは表現として間違っているのではないかと思うのだった。正しく表現すれば、「歯科医院に行ってきた」、或いは、「歯医者にかかってきた」のであるが、面倒なので、「歯医者に行ってきた」でいいじゃないか。

 歯医者について、誰もが口を揃える究極の真理があるとすれば、「歯医者の助手の人はかわいい」ということである。これは殆ど間違いない。「歯医者に行ってきた」という者がまず口にすることは、「痛かった」でも「痛くなくなった」でもなく、「助手の人がかわいかった」ということなのは、統計が証明するところである。
 大学時代に僕が通っていた「田島歯科クリニック」は、そういう意味ではすごかった。なにしろ、助手の人が4人いて、4人とも美人だったのだ。いくら究極の真理とはいえ、この確率は稀だ。僕は歯医者に通うのが楽しみになり、むしろ、歯磨きなどしないで虫歯を増やしてやろうかとさえ思ったのだった。僕はその場所を「奇跡の歯医者」と呼んでいる。
 このことは本文とは関係ない。なぜなら、今回行った歯医者は「田島歯科クリニック」ではなかったし、加えて、助手の人についても特に言及すべきところはなかったからである。

 病院が嫌いなのである。まず僕は彼らを信じていないし、奴らはこちらが「痛い」と言っているのに、さらにそれを「痛く」して治療するのだ。確かにさらに「痛く」した結果、治るのかもしれないが、痛いのは御免なのだ。そんなものは、民族紛争をさらなる武力をもって制するようなものだ。麻酔など、彼らの「痛い」行為を隠蔽するためのものとしか思えないし、「麻酔をするから痛くない」と彼らが言うのは要するに自己弁護である。
 だが、僕は歯医者に行ってきた。奥歯に穴が開き、かなり痛かったのだ。

 その問題の歯は、詰め物をしただけで治療が完了したのだが、更なる問題は、反対側の奥歯である。歯医者は、前触れもなくあっさりと言う。
 「この歯ですね、これは抜歯になります。こんなものをいつまでも残しておいても仕方ないですから」
 それは根っこの部分だけがかろうじて残っていた歯であり、従って、もう殆ど用を成さない代物だったのだが、それにしてもその言い草は何だ。仮にも人の歯だぞ。
 「あなたね、リストラになります。あんたみたいなのをいつまでも残しておいても仕方ないですから」
 それはあまりにもかわいそうだ。そして、同じようにして僕の歯もかわいそうなのだが、リストラと抜歯との最大の違いは、リストラを行った企業は痛くも痒くもないが、抜歯された当人は痛いということである。

 抜歯である。呼んで字の如く、「歯を抜くこと」なのだが、まずその「バッシ」という音の響きからして、痛そうである。
 「今日は右下の奥歯ですね、抜歯しますよ。バシッと行きましょうバシッと。抜歯だけにね。ハッハッハ」
 冗談にもならないのである。「抜歯」という響きの中には、何やらただ事ではない事態が内包されているように思えてならない。こんなにも不穏で痛みを伴う言葉を僕は「土管」以外に知らない。「土管」はただそこにあるだけだが、「抜歯」は歯を抜かれるのである。
 万が一、日本が核爆弾の開発に着手するなら、その名称を「抜歯」にすることを強くおすすめする。それによって、「なんかすごい」という印象が強まるし、諸外国に対しても「BASSI? 何だかわからないけど恐い」と第一印象で思わせ、「意味はpull out a toothだって? なんてことだ」と追い討ちをかけられる。まさに一石二鳥だ。
 ちなみに、ジョバンニ・ミラバッシというジャズピアニストがいるのだが、彼が抜歯を経験したかどうかはわからない。

 兎にも角にも、抜歯である。人生初の経験だ。
 「抜歯自体は麻酔をするから痛くないが、その麻酔が痛い」とよく言われるが、大丈夫だった。すなわち、麻酔もそれほど痛くなかったし、抜歯についても同様だった。
 しかし、抜歯の際、歯科医師はぐいぐいとまさに力づくで当該奥歯を破壊し、オペレーションを行った。僕は終始、歯医者への嫌がらせのため、しかめっ面を作っておいたのだった。「痛いですか」と訊いてきても、「痛くない」との意思表示のため首を横に振り、また眉間にしわを寄せるのである。
 奴らは勝手に麻酔を打ち、痛みを隠蔽することで、それをただの治療に仕立て上げようとしている。ただ、僕がされているのはただの治療ではなく、抜歯なのである。人の歯が一本抜かれるという非常な事態を、ただの治療のように口笛でも吹くかの如くされたのでは困るのだ。しかめっ面はそんな歯医者に対するささやかな抵抗である。だからどうしたというわけでもないのだが。

 抜歯は、歯医者にとっては日常かもしれないが、される側にとっては一大事業である。そこにあってしかるべきものを欠落させられ、加えて、血がたくさん出る。なんて恐ろしいんだ。そんな行為を涼しい顔でやってのける歯医者の神経は、尋常じゃないと思うのだ。
 抜歯が終わり、待合室で名前が呼ばれた。会計だ。提示された支払い金額を見て、僕は驚愕した。
 ――3990円。
 「ばかやろう」と僕は言った。「こっちは抜歯されてるんだぞ。それを3990円とは何事だ」
 受付の女性は目を丸くしている。僕は激昂して続けた。
 「わかるかい、抜歯っていうのは一大事業なんだ。人の歯を抜いておいて、これぽっちの金額しか取らないってのはどういうことになってるんだ。こっちは1万円くらい払う覚悟で来てたんだぞ。それをたったの3990円だなんて、人を馬鹿にするのもいい加減にしろ。ふざけるな」
 言い終わると同時に、僕は1万円札を受付に叩き付けた。すると、6010円が返ってきた。お釣りと薬を受け取り、次回の診察は3日後だというので、「わかりました。ありがとうございます」と頭を下げ、歯医者を出た。仮にも販売の仕事をしているので、そういった折には「ありがとうございます」と言うように心がけているのだ。
 当然ながら、抜歯に対する「ありがとうございます」ではなく、6010円に対する「ありがとうございます」である。


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