ヘグ

 今回の人事異動にて、現在の僕の上司(マネージャー)が隣の店へ赴任することになった。人事異動はあまりにも突然だ。
 現在のマネージャーが去るということは、新しいマネージャーがどこかから来るということである。その新しく来るシミズさん(仮名)という人は、初めて聞く名前だった。一緒に仕事をすることになる人については、やはり気になるのである。「歳は35くらい」「適当」「いじられキャラ」という情報からすると、悪い人ではなさそうだ。

 シミズさんが、赴任の挨拶にやってきたのだった。まだ赴任日ではないのだが、現マネージャーからの仕事の引継ぎとか、上長への挨拶などをしに来たのである。
 現マネージャーとシミズさんが食堂で話していた。食堂はオープンなスペースなので、多くの人の目に触れる。
 僕はシミズさんを一目見た瞬間に、そのことに気付いたのだが、同様にして他の大勢も気付いていた。もちろん、フラワー担当の人(ギャルっぽい)もいち早く気付いていた。
 作業場に戻ってくるなり、フラワーの人はそのことについて、単刀直入に口にした。言いたくて仕方がなかったのだろう。もちろん、その場にシミズさんはいない。
 「あの人、ハゲてましたよね?」
 笑いをこらえきれない様子で、何度も「相当ハゲてますよね」「あのハゲはすごかったですよ」「ハゲほど笑えるものはないですよね」と、罵詈雑言に騒ぎ立てた。
 「どうしてハゲってあんなに笑えるんですかね?」と世界の全薄毛の者たちに袋叩きにされてもおかしくないほどの大変失礼なことを問われたのだが、「人間というのは髪の毛があってしかるべきものだが、ハゲにはそれがない。しかし、ハゲは人間である。髪の毛がないにも関わらず、その目の前にいるハゲは、驚くべきことに人間なのである。そのギャップに人は笑う」と即興の仮説を披露しておいた。
 シミズさんの呼び名はもう決まったも同然である。もちろん、「ハゲ」だ。

 しかし、そこで一つの問題が浮上するのである。現マネージャーがたまたま作業場に立ち入った際、我々が「ハゲ」について騒いでいるのを聞きつけて、重要なことを言ったのだ。
 「それ、本人の前で言うなよ」
 そうなのだ。
 万が一、我々が「ハゲ」の話題で盛り上がっているところをシミズさんが通りかかったりしたら、事件だ。シミズさんは、ハゲをとても気にしているかもしれないではないか。心をひどく痛めてしまうだろう。
 新しい呼び名を考案しなくてはならない。
 「HGがいいんじゃないですか」
 フラワーの人が提案した。「ハゲ」のイニシャルを取って「HG」だそうだ。
 往々にして我々は人の陰口を陰湿に繰り広げる場合、こういった記号を用いる。「KY」などはそのわかりやすい例だ。だがそれにしても、「ハゲ」から「HG」への発想はなかなかの出来だ。僕は感心していたのだが、言った本人はあまり気に入らなかったらしい。
 「やっぱヘグにしましょうよ」
 なんだそれは。「HG」の逆イニシャルで「ヘグ」だそうだ。語感の間抜けさがただ事ではない。
 記号の飛躍である。もはや「ハゲ」の原型も留めていない。わけがわからないが、「ヘグ」という単語の誕生である。奇跡の瞬間だ。
 その後、散々、「風が吹いたらますますヘグっちゃうな」とか「一日過ぎるごとにどんどんヘグっていくんですね、あのヘグは」とか「ヘグザイル」とか、仕事などそっちのけで謎の記号を駆使した会話で盛り上がり、果たして、新マネージャーの呼び名が自然な流れで決まった。「ヘグ」である。
 ヘグは数日後に正式に赴任する。赴任前からこんなにも話題をかっさらったヘグは、ただ者ではない。


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