神について

 毎月発行されるタワーレコードのフリーペーパー「bounce」が気に入っている。邦楽洋楽問わずジャンルレスで、今聴くべき音楽が紹介されているのだが、特筆すべきは、あらゆるジャンルの隅々まで把握された膨大な量のディスクレビューが掲載されていることであり、この情報量で無料というのはかなり贅沢だ。
 大学の頃は、住んでいた街にタワーレコードがあったし、加えて、かなり暇だったので、発行される度に「bounce」を隅から隅まで目を通していた。しかし最近は、タワーレコードが存在する場所に住んでいるとは限らなかったし、それなりに忙しくなってしまったので、遠ざかっていた。音楽を聴くことにそんなに興味がなくなってしまったのかもしれない。
 今住んでいる場所は、容易に「bounce」を入手できる環境にある。たまたま立ち寄ったので、それを持ち帰り、久しぶりに目を通してみた。その情報量はまったく変わることなく維持されており、圧倒的な量のディスクレビューも健在だった。

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 「神」と聞いて、真っ先に思い出すのはグレアム・グリーンの小説『情事の終わり』である。これは、1999年にニール・ジョーダン監督によって映画化され(邦題は『ことの終わり』)、僕はそれを鑑賞し、感銘を受けたのだった。映画は、概ね原作通りに映像化されている。

 ベンドリクスは、人妻であるサラと逢瀬を重ねていた。
 その日は、空襲がいつにも増して激しかった。ふたりはいつものように情事に興じるのだが、家に空襲が直撃し、ふとサラのもとを離れていたベンドリクスだけが生き埋めになってしまう。
 そこで、敬虔なカトリック信者であるサラは祈るのだった。「彼を生かしてください。そうしてくださるならば、私は二度と彼に会わないことも厭いません」
 懸命に祈るサラの前に、ベンドリクスは何事もなかったかのように姿を現した。サラは、自らの信仰心の強さ故、「もう二度と会えない」と残し、彼の元を去る。ベンドリクスは何が何だかわからなかったが、その言葉を受け入れるしかなかった。

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 「bounce」に目を通しているときだった。それは、ジャンルで言えばヒップホップの新譜についてのレビューだった。
 僕は、残念ながらヒップホップには全くといっていいほど興味がない。世間の人と比べれば幅広いジャンルを聴くであろうと自負しているのだが、ヒップホップは殆ど聴くことはないのだった。あまり詳しくないのでイメージだけで語るしかないのだが、ヒップホップには何だか「俺様」的な印象がある。だぼだぼの服をまとい、派手なネックレスみたいなものを首からぶらさげ、こちらを睨み付けて我々を挑発しているように見える。その歌詞も「薄汚いストリートから俺様はのしあがった」とか「世界の女は全て俺様のものだ」とか「俺様についてこい」とか、そういうものだ(というイメージがある)。それらの何がかっこいいのか、僕にはさっぱりわからない。
 何はともあれ、「bounce」を眺めていたら、次の文字を発見したのだった。

 「神」

 音楽の雑誌に「神」という言葉が出てくることにまず驚いたのだが、さらに驚くべきことに、これはアーティスト名らしい。「神」である。我が目を疑い、何度も見直した。アルバムのタイトルではない。そうであったなら、多少なりとも哲学的な雰囲気が漂っていただろうが、そうではなかった。「神」はジャパニーズヒップホップのアーティストの一人だった。
 ヒップホップは、もはや「俺様」ではない。神の領域にまで達してしまったらしい。
 レビューはこう始まる。

 「三軒茶屋のハード・パンチャーによる3作目。人情味溢れる日本男児スタイルは保ちつつ、さらに進化した神を堪能できる」

 何が書いてあるのかよくわからないのである。「三軒茶屋」だの「日本男児スタイル」だのというキーワードが出てきているが、それらを紐解く術を僕は知らなかったし、「進化した神」とは一体何だ。このアルバムが3作目であるらしいということはよくわかった。
 数年前に『世界の中心で、愛をさけぶ』というのが大流行したが、そのクライマックスで主人公の男が「助けてください」と空港で叫ぶシーンがあった。末期の白血病であった恋人が意識不明に陥った時に彼の口から出た言葉だが、それはもちろん医者に対して叫んだのではない。その場に医者はいなかった。その場に、恋人を助けることのできる者は一人もいなかったし、主人公もそれを充分承知の上で、「助けてください」と言っていたのだ。
 すなわち、それは誰に向けられたものでもない言葉だったとみなすことができよう。それが誰に向けられた言葉だったのか、敢えて語るならば神様とも言うべき存在に対して、空しくも彼は無意識のうちに叫んでいたに違いない。
 しかし、その神様が日本男児的であったかどうかは、僕は知らない。もしかしたらその神様が、7作目をリリースするくらいまでに進化していたなら彼女は助かっていたのかもしれないが、わからないのだった。

 レビューはこう続く。

 「“宣誓パンチ”でフリースタイル的にいまの日本に強烈な一撃を浴びせ、般若とZAPPY SOULを迎えた“大日本平和党”やRANKIN TAXIとの“裸一貫”などキラーチューンを連発。特に、哀愁あるトラック上で現代社会の膿を描写した“LOVE LETTER”が見事だ」

 神は指摘する。今の日本は、かなりだめなんだそうだ。詳しくは知らないし述べるつもりもないが、昔とは様々な事情が変わり、様々な問題が山積みになっているようだ。テレビのニュースを見て、「暗い話題ばっかりだな」と誰もが言っている。誰もがそういう気分であり、温厚な神様が敢えてそう言うのだから、よっぽどのことなのだろう。
 それにしても、「裸一貫」とは何だ。いきなりそんなことを突き付けられても、「そうなんですか」としか言えないのである。しかも、自らを「裸一貫」であると自称する者に「今の日本はだめだ」と言われているのだとすれば、その事態はかなりややこしい。それは神ではなくソクラテスに似ている。

 レビューは、「パーティー感とシリアスさを兼ね備えた充実作!」と締めくくられている。
 ちなみに、そのニューアルバムのタイトルは『Master of the PUNCH』だそうだ。ついに神も「正しいパンチ」ができるようになったらしい。

 神は意外と身近な存在なのかもしれない。仮に、ベンドリクスの命を、得体の知れない奇跡によってではなく、「パンチ」によって衝撃を与え、生き返したのならなおさらだ。神は裸一貫なのだそうであり、考えられないことではない。『情事の終わり』の舞台は1940年代なのだが、当時、神はパンチをマスターしていなかったから、それは「間違えたパンチ」だったであろうが、たとえ間違えていようともそんなことは気にせずベンドリクスを生き返そうとする「がむしゃらさ」が胸を打つ。神だって時には間違えるし、時にはがむしゃらになるのだ。
 確かにその神様は人情味溢れていた。ただ、三軒茶屋に住んでいたのかどうか、僕は知らない。


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