それはテレビを見ているときに突然起きた。驚きのあまり跳び上がりそうになった。足元に放置してあった雑誌の上で何かがガサガサと動いたような気がしたのだ。
僕はそのさまを視界の片隅で捉らえた、その音をこの耳で確かに聞いた、ような気がした。
だが、改めてその雑誌の上を見てみるが何もない。辺りを大捜索してみるも、何も出て来はしなかった。
わずかにではあるが明らかに見たのだ、そして聞いた。何かがそこに存在していた証拠を。小さくて黒い、形容するならまさにゴキブリとしか言いようのないそれを。
仕方ないので諦めた。きっと幻でも見たのだろうと片付けた。それにしてもあまりにもリアルな幻だった。
この話にはまだ続きがある。数時間後、この前半で述べた謎は完結することとなる。
友人へのメールを打っているところだった。幻として片付けたはずだったがかなり印象的な出来事だったため、その数時間前に起こったこともその文に添えていた。
まさにその時である。カーペットの上を横切ってこっちへやってくる黒い物体が視界に入った。反射的にその方を見ると、そこにはいた。
体長約四センチ、長い触角、全身に黒をまとったシックなフォーム、何億年も前から変わらぬというその体躯、素早い身のこなし。
まさにゴキブリだった。この部屋に住み始めてからお初にお目にかかる。
やはり、先程見たと思っていた映像、あれは幻ではなかったのだ。そして今、それと同一人物であろう者を僕の目はしっかりと捉えている。
衝撃的映像だった。初めてじっくり見る物珍しさと、遂に出現を許してしまったというショックで、しばらくはその黒いボディが動き回るさまを眺めていることしかできなかった。
やっと我に帰って事態が飲み込めると、思考は次の段階に入った。
「なんとかしなければならない」
だが、どうすればいいのか。なにしろ初めての出来事であるし、まさか現れるとは正直思ってもみなかったので対処の仕方に苦心した。殺虫剤を買っておくべきだったと生活の知恵を学んだ。
とりあえず立ち上がって、その小さな黒い生命体に一歩近づいてみた。
すると、そのリトル・ブラックは奇妙なほどの早足で僕から離れるように逃げていった。どうやらかなりの臆病者らしい。
あるところまで距離を置くと少し立ち止まり、また最初の調子で歩き始めた。ゴキブリの歩き方というのは進んで止まっての繰り返しらしい。
僕はまた少しずつ近づいていった。足で床をドンと鳴らしてみた。
すると案の定、全力疾走で逃げていった。やはり臆病者だ。しばし僕はそのさまを面白がった。
しかし、この後、予想外の状況が発生した。
あまりにも驚いたのか、その黒く奇妙な虫は、雑に積んであった本と本の僅かな隙間に入り込んで潜伏してしまったのだ。
どうしよう。
上からその本を踏み付ければ事態は解決する。しかし、その後の処理はいかにすべきか。その不運にも潰された黒い臆病者の処理もそうだが、それを挟んでいた本はどうしたらいいものか。二度と触れることすら憚られるだろう。
さらにこの生活空間の中で殺めてしまうのは避けたかった。潰した衝撃で体液がスプリンクラーのごとく飛び散ってしまったりした日には、僕は何度も手を洗って血を流そうとする殺人者のごとくトラウマと罪悪感とに満たされてしまうだろう。
時間との、黒い小さな悪魔との対峙。黒い化石は本の間に潜んでいる。
しばしの沈黙の後、意を決した。やはりここで殺すことはできない。
僕はその六本足の小さな黒が伏しているところの上にある本をひっぺがした。
明らかになるその姿。
するとその渋い黒は再び駆け出した。今度はこの部屋を越え、キッチンの方へ向かった。
チャンスだと思い、僕は威嚇するように追跡を行い、その小さなスプリンターを玄関の手前まで追い詰めたのだった。
ここで再び沈黙があった。
また考えた。どうすべきかを。
一、ガムテープに接着させてぐるぐる巻きにして捨てる。
二、片手に持った先月号の月刊ザ・テレビジョンを振り下ろし殺害する。
三、殺虫剤がないので試しにカビキラーででも攻撃してみて、死んだらそれでよしとする。
どれにしようか、一〜三が頭の中をぐるぐる回った。だが、どれも実行するには及べない。迷った。片手に握り締めた月刊ザ・テレビジョンが虚しかった。
そうこう考えあぐねているうちに、またその黒いランナーが行動を開始し始めた。しかもキッチンの傍らに立っていた僕のほうへ向かって来るではないか。
こっちへ近づいて来ることの嫌悪感と、再びとなる居間への侵入は避けたい一心で、僕は月刊ザ・テレビジョンで床を叩き威嚇を行った。
すると、やはり臆病者であった。踵を返して再び玄関の方へと戻っていった。片手に持った月刊ザ・テレビジョンが心強かった。
その時、その黒いパラサイトを追う僕の目に映ったのは、外へと通ずるドアである。
どうしてこんな単純なことに気付かなかったのだろう。
僕は続けて激しく威嚇をし、その黒い異端児をドアのすぐ傍まで追いやった。
そしてドアを少し開け、さらに威嚇の嵐を降らすと、そのゴキブリという名の敗北者は見事に僕のテリトリーから敗走して行ったのだ。
戦いは終わった。しかも一匹の死傷者も出さずに平和的解決を遂げた。名誉革命さながらである。
部屋に戻り、落ち着きながら僕は緩やかな衝撃に包まれていた。まさか本当に現れるとは思わなかった。
第一、侵入経路が分からない。この部屋はほぼ密室だ。ということは、この部屋で生まれ育った箱入り娘だろうか。ということは、僕はついさっきその箱入り娘を大いなる世界へと巣立たせてやったという、彼女のこれからの生涯にとって極めて重要な親心にも似た行為をなしたのだろうか。
それはそうと、「一匹出ると百匹はいる」ということもよく言われる。まだ戦いは始まったばかりだ。
しばらくして、中断していた友人へのメールの作成に取り掛かった。なぜ僕がメールを作っていたかというと、その日は彼の誕生日だったのだ。
だが、数分後に彼に送られたそのメールは、19歳を祝う内容とはほど遠く、大半は数分前の黒い衝撃との奮闘記で占められていた。
九月三日、秋の気配も近づく午前三時過ぎの出来事だった。