「ナースコール」疑惑

 人は精神の昂揚状態に陥ると、理解不能な発言が多くなる。発言というよりは、「発言そのものの失敗」とでも言うべきであろうか。混乱状態や焦燥状態においても同様のことが生じるが、全くの平常状態であっても、身体の構造上の問題か、発音の方法に問題があるのか、それとも平静を装いながらも心が常に高熱の状態であるためかはわからないが、そういう発言をしてしまう傾向が強い者もいる。
 いわゆる「噛む」というやつだ。

 そのとき僕はサッカー中継を観ていた。

 バラエティー番組や報道などでその「噛む」ということが起これば、他の者が疑問を投げかけたり、あるいは自らがそれを修正したりすることで、その発言を打ち消し、正しい情報を我々に伝達せしめることができるが、スポーツ中継においてそれは不可能であると言わざるを得ない。目まぐるしく状況が展開するので、自分や他者がその発言に対して何らかの指摘をする余裕がないばかりか、いちいちそんなことをしていたらそのスポーツ中継自体のスピーディーさを欠けさせる結果となりかねないのである。

 実況:「玉田がドリブリュで突破します」
 解説:「え?」
 実況:「ドリブルの間違いでした。訂正してお詫びします。……玉田がディフェンジャーをかわします」
 解説:「え?」
 実況:「ディフェンダーの誤りでした。訂正してお詫び、あ、ゴールだ」

 などという空虚極まりない事態に陥ることも考えられなくもないのである。これだけは避けなければならないのは無論のことだ。
 つまり、スポーツ中継における「噛む」は、その「噛んだ」発言を無訂正のままに視聴者に伝達せざるを得ない状況であるため、我々はその情報を無条件に受け入れなければならないのである。
 それはその中継をスムーズに行うための暗黙の了解のようなものだ。たとえ実況や解説の者が「噛んだ」としても、そしてそれが発言者によって訂正されなくとも、我々がその発言に疑問を持った場合は、それが何を言わんとしてのものかを独力で推測し、自ら納得しなければならないのである。

 その中継はワールドカップ予選だった。
 相手国は強豪チームであったが、本選に余裕を持って勝ち進むためには是非とも勝利をものにしておきたいという試合であった。重要な試合なだけに、実況や解説にも力が入る。加熱する試合展開と共に、彼らのボルテージも高みを見せていた。

 そんなときだ。
 日本が攻め込んでいたが、相手国にボールをクリアされたという場面で、実況者か解説者かはわからないが、こう言ったのだ。

 「ボール親父!」

 これは何だろう。新種のボールか、それとも新種の親父だろうか。
 いずれにしても、このサッカー中継に親族関係、もしくは中年男性の別称は全く無縁であり、どこの親父かはわからないが、彼が登場する余地は皆無であると言える。ましてそれがボールに付属していたとしても、一層事態は難解さの色が濃くなるばかりだ。「ボールの親父」か「ボールが親父」か、それとも「ボール親父」という固有名詞なのかは知らないが、いずれにしろ全く理解できないのである。
 「オヤジ」というサッカー用語があるとも考え難い。
 なるほど、これはきっと「噛んだ」というやつであろう。興奮のあまり口がついていかなかったのだ。
 しかし、それが何かを言い誤ったものであると考慮しても、何一つわかってこないのである。
 「ボール親父」からは、どんなに熟考してもインスピレーションは生じなかった。謎を残したまま、熾烈に展開していく試合を追いかけるしかなかったのである。

 日本が相手陣内に攻め込み、チャンスの場面が来た。そこでまたさっきの者が言った。

 「ワン!」

 スポーツ中継の真っ只中、それも自国の絶好のチャンスの際に公共の電波で犬の鳴き真似をするとは失敬な奴である。何を考えているんだ。
 いや、もしかしたら、「ワン、ツー」のような掛け声の意味で「ワン」と言ったのかもしれない。だが、そんなことを言う実況者あるいは解説者は、バレーボール中継においてすらもいないばかりか、ましてサッカーでそんな掛け声は不必要なのである。
 だとしたら、あれは犬の鳴き真似だったのだろうか。それとも、「噛んで」しまったがゆえに犬の鳴き真似になってしまったのだろうか。
 いずれにしても、そのとき実況解説席に犬がいたのは確かなのだ。

 日本がゴールを決め、同点に追い付いたときだ。盛り上がりは最高潮である。
 実況者でも解説者でもどっちでもいいが、言ったのだ。

 「ナースコール!」

 誰の病状が急変したのかは知らないが、彼は緊急に看護士を必要としていたに違いない。おそらくどちらかの血圧が上がり過ぎ、倒れたのだろう。
 彼にとっては日本のゴールどころの話ではない。倒れた者が解説者だったなら、実況者は解説も兼ねて戦況を伝えなければならず、実況者が病院に運ばれるなら、解説者は実況もしなければならない。これは当事者にとっては非常事態であり、焦りの余りに、思わず病院でもないにも関わらず「ナースコール!」と叫んでしまったのも頷ける。

 いや、違った。両者とも健在であった。

 少し考えればわかることだが、これは「ナイスゴール!」の言い誤りだ。
 言い誤りか、もしくは僕の聞き違いである。そう懸念するのは、「ボール親父!」と「ワン!」が出た時点で、僕の頭はサッカーどころではなく、実況解説席の者の理解不能な発言、いわゆる「噛んだ」発言を期待することで頭が一杯だったのであり、「ナイスゴール」と明瞭に発していたにも関わらず、「ナースコール」と勝手に脳が改竄を強行していたとしてもおかしくはないと思われるからである。今となっては、実況解説席の者の誤りか、それとも僕の過失なのか、すなわち、「ナースコール」だったのか、「ナイスゴール」だったのかはわからない。
 事の真相はそのサッカー中継をもう一度観ないことには謎のままである。その試合は2005年3月25日のイラン戦であるが、この「『ナースコール』疑惑」が巻き起こるとは到底予測できず、録画もしていないので、それは恐らく永遠に未解決なのだ。運良く録画した者に見せてもらうしか手はない。

 しかし、「ボール親父!」と「ワン!」については、同様の手続きを踏んだとしても解決の糸口は見出せない。
 こればかりは発言者にその真意を直接に問い質さない限りは光は見えてこないのである。


[戻る]
inserted by FC2 system