西洋史の教授はイギリスの大学で教えていたこともあるという。そのせいかどうか彼は西洋的雰囲気を持っている。
なぜこう思うかというと、話し方だ。彼は自分の授業である「西洋史」のことをこう言う。
「西洋Si」
明らかに欧州人の影響を受けている。“Si”である。流暢な発音だ。見た限り、彼は六十歳くらいの年齢だろう。それなのに“Si”だ。
一般の人なら老いていくにつれて発音には老人の特徴が出てくるものである。
来年で六十二歳を迎えるという藤田八十吉さん(仮名)に「西洋史」と言ってもらったところ、彼はこう言った。
「西洋す」
もはや「し」が発音できないのだ。それなのにあの教授は“Si”である。
きっと彼がイタリア旅行へ行き、“Yes”の意味で“Si”と言ったなら、彼は喝采を浴びるに違いない。「イタリア語上手ですね」「すばらしい発音ですね」と、鳴り止まぬ拍手が彼を包むのだ。
あるいは、フランスへ旅行に行ったとしよう。彼はレストランに入り、ボーイさんを呼ぶためにこう言うだろう。
「Monsieur」(ムッシュー)
すると、ボーイさんが驚きとともに直ちにやって来る。
「すばらしいですね。“Monsieur”の“si”の部分の発音が完璧ですよ」と、彼を称えるのだ。レストラン中が立ち上がり、映画祭で観客賞を受賞されるくらいの拍手が彼に送られる。まもなく料理長が駆けつけ、こう言う。
「お代は頂きません」
彼の第二のホームグラウンドともいえるイギリスではどうか。
ある日、彼は体調が悪そうに街を歩いていた。それに気づいた親切な人が、「大丈夫ですか。どうかされましたか」と彼に話しかける。
彼は答える。
「I'm sick」(風邪をひきました)
すると、通りを歩いていた人は一斉に彼に注目する。そして絶賛するのだ。「あなた、“sick”の“si”がすばらしいじゃないですか」と。
誰も彼の風邪のことには触れてはくれない。彼の“si”に比べればそんなことは気に掛ける足りないのだ。
彼の手にかかると、日本の歴史上の人物もたちまちヨーロピアン的な空気をまとう。
「聖徳太Si」
あの聖徳太子の肖像が違って見える。あの頭に乗せた黒いものが王冠に見えてはこないだろうか。手に持ったへらのようなものも騎士剣に変わってしまう。両脇に控えた二人の女性も、アングロ・サクソン系かケルト系かようなの顔立ちになっている。
接続詞に対しても彼の西洋の風は吹き余すことない。彼は文と文とを「そSiて」と繋ぐのだ。
日本人の僕にとって、それは英語の“and”よりも馴染みやすい場所にある西洋なのである。