種を越えて空を見上げる

 人は時に空を見上げる。

 青い空をただ眺めているのかもしれないし、形を変えながら流れていく雲に身を浸しているのかもしれない。もしくは、果てしなく広がる大きな空間に思いを馳せることで優しい気持ちになろうとしているのかもしれず、ただそこにあったからなんとなく上を向いてみただけのことなのかもしれない。

 その時の心情を表現できる者は多くはないだろう。頬杖をついて、空を眺めている人に「どうして眺めているのか」と訊いたところで明確な回答が得られるとは思えない。そこに理由などないのだろう。

 ただ、人が空に魅せられる存在であることだけは確かだ。それは、見るという行為を超えて、写真に収める者や、イギリスの風景画家コンスタブルのように雲を習作として執拗に描いた者たちが多くいることからも明らかだ。

 人は空を意識せずにはいられない。滅多に見上げることのない人がいたとしても、彼の中に、空に関する興味が全くないとは思えない。街を歩きながら、仕事に夢中になりながら、悲しみに暮れながら、我々は空のことを気にしてしまう。そして、ふとした時に見上げてしまうのだ。

 そして、それは人間だけに限ったことではない。

 我が家の水槽にいる2匹のイモリでさえも、時に空を見上げている。だが、それは水槽代わりに使っている米びつの蓋、という名の空だ。首が痛いのではないかと思えるほどに垂直に顔を上げ、長時間に渡って眺めていることもある。半透明の何の面白みもない蓋を、である。

 同水槽内に共に飼育されているヒメツメガエルも空を見上げる。コンゴツメガエルとも呼ばれるこのカエルは一生水中で過ごすという種類だが、しゃんと足を伸ばして、そのままロケットのように飛んでいってしまうのではないかという体勢で見上げているのだ。彼らは一体何を見たいのだろうか。

 いや、彼らが見ているのは、れっきとした空なのである。何を見たいわけでもなく、空を眺めている。それは人間界では蓋と呼ばれているものかもしれないが、彼らにとっては空以外の何物でもない。

 生物というのは見上げてしまうものなのだ。

 イモリは蓋という名の空を見上げている。人はもしかしたら空という名の蓋を見上げているのかもしれない。だが、それでいいのだろう。空は相変わらずいつもそこにあるのだ。


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