中古本屋に思いを馳せる

 中古本屋では棚に並べられた本を眺めることによって様々な人間の心理を垣間見ることができる。
 そこに置かれている本の全てはかつては誰かの所有物であったのであり、そこから前の所持者の魂を間接的にではあるが感じることが出来るのだ。
 中古本屋。そこには本に残された小さな意志が集っている。

 例えば、100円の破格で棚に陳列されている『猿岩石日記』である。
 一時は一世を風靡したあのベストセラーが、今や窓際族的な扱いである。
 『猿岩石日記』は中古書店の光の当たらないような所で顔を並べ、我々人間たちにどんな眼差しを向けているだろうか。
 彼らは様々なかつてのベストセラーたちが棚に数を増していくのを見ながら、同情の念と共に、人間の営みの儚さ、心の停留と移ろい、栄光と没落、そして永遠についてなどを思っているのかもしれない。
 夜、人間たちが寝静まった頃、『方丈記』と無常について語り合っていたとしてもおかしくはない。

 例えば、外国文学の棚に『失われた時を求めて』の第一巻だけがあるのを見たとき、そこには「挫折」という二文字が浮かんでくる。
 『失われた時を求めて』は二十世紀を代表するフランスの作家マルセル・プルーストの大長編小説であるが、プルーストは一生を懸けてこの作品を執筆したというだけあって、内容はかなり長い。名の如く大長編なのだ。ちくま文庫刊の分厚い文庫本で全十巻である。
 そのうちの第一巻だけがぽつんと棚にある。
 きっと、これを売りに出した者は、初めは読む気満々でそれを購入したのだが、なにせプルーストという人はクセのある文章の書き方とした人だというので、それを目で追うのに疲れ、第一巻を読み終わるだいぶ前に挫折してしまい、他の本と一緒に、もうこの本を読むことはあるまいと買い取りに出した、といった具合だろう。
 第二巻、第三巻たちという兄弟から引き離され、様々な国々の海外作品の中に身を置くこととなった、孤児とも言うべき『失われた時を求めて』の第一巻は、異国の地で、人間の意志の薄弱さ、決心の揺らぎ、そして自らの失われた時について思いを馳せているのかもしれない。
 そして夜に、逆に第一巻だけない『レ・ミゼラブル』の、その損なわれた場所へ身寄りを求めに行っていたとしてもおかしくはない。

 例えば、最初のページの問題を解くことだけで断念した形跡がそのまま残されて棚に並べられた漢字検定一級の問題集を見たときなどは、軽い思いつきで始めてみたが、その動機ゆえに飽きも早かったという青春の過ちみたいなものが感じられる。
 しかもそのページの正解率はかなりのものであったにも関わらず、その者は次のページへ進むことはなかった。
 まさに飽きているとしか言いようがない。
 その三日坊主の犠牲になった漢字検定一級の問題集は、陽の目を見たその三日ばかりの思い出を胸に抱きながら、軽率な行為によって傷つけられている者が今もこの世界のどこかにいるであろうことを思っているのだろう。
 そして、真夜中にこっそりと『グリーンマイル』を読み、「毎日毎日、そんなことばっかりだ……世界中でね」というジョン・コーフィーの言葉に共感し、涙しているのかもしれない。


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