耳鼻戦争及び鼻水について

概要

 「鼻」と「耳」の抗争は、我々の顔面のうちで最も熾烈な争いである。顔の四大パーツというものがあり、それは「目」、「鼻」、「口」、「耳」であり、六大パーツとは、それらに「髪」と「眉」が加わる(上記に、女性には「頬」を、男性には「髭」を加えて七大パーツとする説もある)。当然ながら、最も権力を持つのは「目」であり、それに次いでは「口」なのだが、三番手を巡って「鼻」と「耳」の力が拮抗し、いまだ結論が出ずということになっているのである。

序列とその考え方

 顔面のボスが「目」であるという点については、異論はないであろう。もちろん、我々が人間ではなかった頃はそうではなかった。メキシコサラマンダーなどは、視力は殆どなく、嗅覚によって物事を認識するのであり、コウモリは、視力を捨てて超音波などという突飛な道具を使いさえするのである。しかしながら、我々はもはや人間であり、現代は情報化社会と言われて久しいが、その中にあって我々が得る情報の70%以上は視覚によるものなのである。圧倒的に「目」が優位に立っているのは自明である。また、ある一人の人間を誰だかわからなくする最も簡単な方法について我々は知っている。目を隠してしまうのである。その証拠に、似たようなサングラスをかけている者に対しては、大抵、「タモリかよ」と言う事になっている。「目」の消滅が、その者の可視的なアイデンティティーをも崩落させ、「タモリ」としか認識できなくなってしまったということである。つまり、「目」は「見る」と「見られる」の両方の局面において、極めて重大な機能を備えているということだ。
 「口」については、顔面のうちで最大面積が他を凌駕するという点で支持されており、これについても「鼻」や「耳」はその権力を認めている。その気になれば、「口」は、「鼻」や「耳」を物理的に飲み込んでしまうことすらできるのであり、「歯」という大量破壊兵器さえ保持している。要するに、軍事力の差だ。
 しかしながら、「鼻」と「耳」は、それに次ぐ座を主張して互いに譲らない。「鼻」は、様々な方法で「耳」に対する優位性を主張してきたが、その権力が認められるには至っていないのである。

歴史

▼第一次耳鼻戦争
 「鼻」は、我々が人間として進化が完遂された約25万年前、「かつて我々が下等生物だった頃は、嗅覚の玄関口である自分が王座に君臨していたのであり、進化への貢献とその栄華を考慮せよ」と「耳」に申し出たのだが、「耳」は、「人間の耳の形状は他のどの生物のそれにも似ておらず、複雑である。君こそ、この独自性と成長率を認めよ」と一歩も譲らなかった。

▼冷戦時代
 「鼻」と「耳」の険悪な状態は、それから長い間続くことになる。彼らは互いを意識し合い、その冷戦状態は何十万年もの間、維持されることとなった。

▼第二次耳鼻戦争
 その膠着状態を動かしめたのは、哲学者ブレーズ・パスカルである。彼は、1670年に出版されたその著書の中で、「クレオパトラの鼻」について言及したのだが、それを武器に「鼻」は「耳」を糾弾する。
 「『パンセ』を知っているかい。『パンセ』というのは、訳せばつまり鼻のことであり、鼻というものがいかに重要な要素で、歴史ですらも動かし得る存在であるということを緻密に考察したものなんだ。つまり、耳よりも鼻のほうが重要性が高いということだよ」
 「耳」は、暫くの間、遠くを見つめてから、徐に「鼻」に視線を投げかけ、こう言った。
 「それにしても君、鼻水が垂れているぞ」
 「何だって」
 「だから、君のその鼻から水が垂れていると言ったんだよ。私に何か言うなら、まずそのみっともないものを拭いてからにするんだな。そう思わないか。鼻水を垂らした奴と真剣に議論する気になんかならないね」
 そこでこの議論は雲散霧消してしまった。「鼻」は、その「耳」の主張が詭弁であると申し立てる気にもならなかった。なぜなら、事実、鼻水が垂れていたからであり、もっと言えば、「鼻水」の処理に追われることで、「耳」との抗争に費やす力が分散してしまったからである。
 「耳」は、「鼻水」攻勢によって、見事に「鼻」のまさに鼻をへし折ってやったといい気になっていたのだが、そこに例の「ゴッホ事変」が発生するのである。

▼ゴッホ事変
 これは言わば、猟奇とも言うべき事態である。つまり、1888年の冬、画家のフィンセント・ファン・ゴッホが自らの耳をナイフで切り落としてしまったのだ。その事実は「耳」から「耳」へと小耳に挟まれ、遂に世界中の「耳」を脅かすこととなった。「耳」は、その凶行による衝撃から精神的に大きな衝撃を受け、「鼻」からは毎日のように「耳不要論」をどやしつけられ、夜も眠れない状況が続いたのだった。
 しかし、「耳不要論」を唱える「鼻」から「鼻水」が垂れていることもしばしばだったので、「あんなみっともないのよりはまだいいか」と次第に「耳」は自らを安心させるようになっていったのである。

▼第三次耳鼻戦争
 芥川龍之介の小説『鼻』(1916年)を論拠に、「鼻」は「鼻によって、人は自分自身とは何かと問い、そこから自らの複雑さを知り、不完全さを認め、寛容さを見出し、愛を発見し、人間性の確認へと回帰する。鼻は哲学である」と主張したが、「耳」は「でも鼻のでかい奴は不恰好だ。それ以上のものが鼻水だ」と一蹴し、決着はいまだついていない。

▼ゴッホ事変の新展開
 2009年、ゴッホの耳を切り落としたのはポール・ゴーギャンであるという新説をドイツの学者が発表したことを受けて、「耳」は「ゴッホ事変」は一種のテロリズムであり、その主犯が「ゴーギャンの鼻」であるという見解を示した。「鼻」は容疑を否認している。

各々の見解

 以下は、過去に幾度も催された「顔面サミット」において、各部位が「耳鼻戦争」に対して発表した公式見解である。

▼目
 「耳」がその形状の独自性において、芸術的なまでのフォルムを備えているのは認める。まして、「耳」の内部にある「うずまき管」は、見事なまでの数学的美しさに満ちている。それに比べ、「鼻」はその形状如何によっては、顔というアイデンティティーを主張する上で重大な要素を醜悪なものにしかねない。美学の観点から言えば、私は「耳」を支持する。

▼口
 嗅覚によって食欲が増進されることは大いにありうる。その意味で言えば、私は「鼻」の恩恵に多分に与っているわけである。しかしながら、嗅覚にはもうひとつ重要な役割、つまり、その食べ物が腐っていないかどうかを確認する責任があるのである。その責務をサボタージュして、腐乱したものについて平気でゴーサインを出されると、私も困るし、五臓六腑たちはもっと困る。「鼻」とは良きパートナーとしてこれからも関係を構築していきたい。

▼髪
 正直、私が成長する段階において、「耳」というのは非常に邪魔なのである。障害物以外の何物でもない。そういう意味では、「ゴッホ事変」はひとつの革命的な出来事だったと思う。「鼻」に関しては、全く興味がないので何とも言えない。

▼眉
 「鼻」や「耳」と関わりを持ったことがないので何とも言えないが、歴史を紐解けば、「鼻」が「耳」を様々な方法で論破しようと試みたのに対し、有史以降、「耳」は「鼻水」の一点張りで「鼻」に打撃を与えている。その意味で、「鼻水」は偉大であると思う。

▼頬
 「パンセ」は「鼻」という意味ではないのではないか。それと、チークを上品にあしらった女性は可愛い。

▼髭
 髭を生やしている男は数あれど、髭における最もおしゃれな人物を二人知っておるぞ。つまり、伊藤博文とサルバドール・ダリじゃ。伊藤の髭は、無造作に見えて実は細かな手入れがしてある。奴は、髭によって歴史を作ったようなもので、あの髭がなかったらただの工場労働者に終始していただろうな。ダリについては言うまでもない。彼は自らをも作品に仕立て上げていたのであり、髭はその象徴ともいえる存在なのじゃ。

今後の見解

 「鼻」がその優位性を主張するに当たって、妨げになっている最大の要因は「鼻水」に尽きる。上記の通り、「鼻」は手練手管を用いて「耳」の出世の妨害を試みているのだが、「耳」は殆ど「鼻水」を拠りどころとする攻勢のみで「鼻」の論法を詭弁によって軽くあしらっており、「鼻」もそれによってダメージを受けている。「鼻水」というのは、論理を超えた「だらしなさ」を有する非常に類稀な事象であるということだ。
 「鼻」は「鼻」であるがために、その躍進のチャンスが悉く翻されているのであり、一方、「耳」は「鼻水」という名の隙を突くことによって「鼻」の攻撃を跳ね返すものの、自らの躍進のための攻撃の手段はというと、いまひとつ生彩に欠ける。従って、両者の攻防は依然として平行線を辿ったままだ。ならば共存の道を歩めばいいではないかという見解もあるが、事態はそう単純ではない。世界の宗教問題における紛争がいまだに解決していないのと同様である。
 両者共に、今後、新たな攻勢に出ることが明らかになっている。「鼻」は、2050年までに全ての人類の「鼻水」を止めるという「40年計画」を発表しており、現在、ヒトゲノムのより高度な研究を基盤とするウイルス及び花粉対策に躍起になっているし、「耳」は、全ての学問を耳と関連付けて再構築し、生命、宇宙、知の全ては耳が礎になっているのであるという『耳起源論序説』の編纂とその考え方の提唱を各大学に働きかけている。
 「鼻」と「耳」の論争にいつ終止符が打たれるのか。まだ我々が知る由はない。


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