仮病の方法

仮病とは

 我々の健全なる精神を持った者であれば殆ど、「今日は仕事に行くのが面倒だな」とか「あー、起きたらこんな時間だ、間に合わないな」とか「ちょっと心配してもらおうかな」という時、会社なり当人の存在と責任を管轄する組織に電話を掛け、「なんか頭痛いんで休みます」と電話口で告げ、そのまま東京ディズニーランドに遊びに行ったりすることが一度はある。もちろん、彼は実際に頭痛など患っていないから東京ディズニーシーへ遊びに行ったのであり、本当に頭が痛かったらそうはしていない。部屋でおとなしく寝ているのである。
 これが一般に言われる「仮病」である。病気であると虚偽の申告をして、自らの義務と責任から逃れるのである。自らの義務と責任から逃れるための他の方法としては、「拒否」、「失踪」、「自殺」などがあるものの、義務と責任をひたすらに拒否し続けるにはかなり強靭な精神力を要するし、失踪したはいいが生きて戻ってしまったら元も子もないし、死んでしまってはさらに元も子もない。そう考えると、仮病というものがいかにお手軽な手段であるかということがよくわかる。
 まして、実行するための手順も、誰にでもできる平易さである。
 ?電話をかける、?「病気なので休む」と告げる、?通話を終える。
 たったこれだけのスリーステップで、我々は皆がせかせかと仕事をしている真っ只中に葛西臨海水族園で魚を鑑賞し、清々しい気持ちになることができるのであり、翌日に顔色を悪そうにして出社した際には、皆に心配されるという「おまけ」まで付いてくる。仮にその心配が上辺だけのものだったとしても、そこに幾許かの優越感を得ることができるだろう。「あんたたちが膨大な量の書類を眺めている間、こっちは上野動物園でパンダを眺めていたんだぜ」と。


具体的な方法

 病気であるとの虚偽の申告をする際、どんな病状、あるいは病気をでっち上げるかについては、なかなか考えどころである。ここが仮病の要所であり、核であり、言ってしまえば、仮病とは殆どそれだけのものだからである。ここで如何なる攻撃に出て、相手を撹乱させ、納得させるか、それを考え実行に移すことはいささかスリリングであり、同時に、仮病最大の楽しみとも言える。仮病を用いて品川エプソン水族館でイルカショーを眺めることなど、仮病をでっちあげて納得させる瞬間の爽快感に比べれば何のこともないと言う者もいるくらいなのである。
 当然ながら、「癌なので休みます」などと告げるのはやめておいたほうがいい。それはもう「ちょっと休む」という範疇を著しく飛び越えてしまって、収集がつかないことになってしまうからである。同様にして、「くも膜下出血」や「マラリア」などもやめておいたほうが無難だ。仮病に過激さは必要ない。仮病においては、「インフルエンザ」ですらもちょっと過激なくらいなのである。
 仮病の「三種の神器」というものがあり、それは「熱」、「腹痛」、「頭痛」なのだが、初心者においてはこの辺りから始めるべきであろう。三種の神器というだけあって、これらは、俗に言う「鉄板」である。すなわち、殆どの場合、これらを用いれば仮病として完全に認可されるということである。熱であれば、38℃を超える数値を伝えれば大丈夫だし、「お腹が痛い」については「何か悪いものでも食べたんじゃないかハッハッハ」と冗談みたいな感じになるし、「頭が痛い」においては、うまく行けばストレスとか鬱とかそっちのほうの心配まで勝手にしてくれて、翌日から仕事が減らされているという幸運がもたらされる可能性も秘めている。従って、おすすめは「頭痛」だが、以降、また仮病を用いる際にワンパターンになってしまってもつまらないので、上記の三種を当人のアレンジを含めつつ使い分けるのがいいであろう。そして少し慣れてきた頃に「肉離れ」などという冒険をしてみるのも一興だ。
 仮病を申請し、それが認可されれば、その後の時間をどう使うかは、完全に当人の自由だ。嘘のような話だが、これは本当なのである。すべきことなど何もないし、追いかけてくるものも何もない。眠るも良し、テレビを眺めるも良し、読書するも良し、出掛けるも良し。何者にも拘束されることなく、完全に自由なのだ。

2つの問題と対策

 ここで問題になるのは、仮病に対する我々の心情についてである。すなわち、「良心の呵責」と「露呈の恐怖」である。
 人というのは思いのほか真面目な生き物であるようで、仮病で休むことに罪悪感を覚えてしまったりするのである。私は以前、全く仕事に対してやる気が出なかった日に「頭が痛い」と虚偽の報告をして早退し、帰りがけのコンビニエンスストアでビールを山ほど買い、平然と部屋でテレビを見つつ昼間から酔っ払っていたことがある。私も、これは嘘だが、テレビを見つつビールを飲みながらひどく罪悪感に苛まれたのをよく覚えている。もちろん、これはいけないことには違いない。我々は、仮病で休むべくして仮病で休んだのだから、そこに罪悪感など感じる必要はないのである。そんなことになるくらいだったら、初めから仮病なんて用いずに、嫌々ながら仕事なり学校なり付き合いなどに出かければいいのである。弱い意志のもとに仮病を利用することは、仮病に対して非常に失礼な行為であることを、仮病者は肝に銘じておくべきである。
 もうひとつの問題は、実際には病気でなかったことがバレてしまうのではないかという恐怖である。これは由々しき事態だ。なぜなら、バレることを前提に病気を申告する者はいないからである。それが露呈してしまった際には、当人においては、著しい信頼の失墜と目上の者からの激しい追及、叱責が待ち受ける。普通の人間なら、信頼を失うのは嫌だし、怒られるのはもっと嫌だ。そういう意味で、仮病は決して明るみに出ることなく完遂される必要がある。仮病は完全犯罪を志向する。

仮病を「患う」ということ

 これは上級者向けの話になるが、練達の仮病使いにおいては、仮病を利用して「サボる」などという邪なことは決してしない。仮病に対して純粋たる姿勢である者だからこそ、「頭が痛いので休みます」と告げて、そのまま頭痛にうなされて寝ているのである。ここで間違えてはいけないのは、彼は決して頭が痛いわけではなく、むしろ、頭なんて全然痛くないし、心も晴れやかであるということである。本当に頭が痛いのであれば、それは頭痛という病気なのであり、仮病ではないのである。
 我々は概ね、仮病を「使用」することしか考えていない。仮病を「使用」し、頭が痛くないからこそ越谷レイクタウンへ行くのであり、熱がないからこそ那須ガーデンアウトレットへ足を延ばすのであり、くも膜下出血でないからこそヴィーナスフォートへ行くのである。別に行かなくてもいいのだが、要するに、それが仮病を「使用」或いは「利用」するということなのである。
 その考え方から一歩踏み込んだのが、仮病を「患う」ということである。「頭痛という仮病」を「患った」のだから、頭が痛くないのに「頭が痛い」と宣言し、そのまま頭痛と戦うのである。なかなかこのニュアンスはわかりにくいのだが、練達の仮病師は、「患わない仮病は、ままごとと同じだ」と口を揃えて言っている。「仮病によって逃げるために仮病するんじゃない。仮病と向き合うために仮病するんだ。もちろん、苦しいさ。患うんだからね。試練みたいなものだよ」と。
 ともかく、この領域に達すれば、仮病特有の「良心の呵責」と「露呈の恐怖」という問題は雲散霧消する。実際に患っている訳だから、何も後ろめたいことはないし、同様にして、嘘がばれることを恐れることもない。実際に患っているからである。
 もちろん、そうであるからには、「仮病ですので休みます」と上長に報告し、「そうか、お大事にな。ゆっくり休んで元気な姿で出社してくれよ」と声を掛けられることも、世界がもっと寛容になれば実現するであろうし、病院では仮病が正式な病気として診断され、保険の対象内に仲間入りすることも、近代医学が進歩すれば、可能であると私は考える。

 仮病とは、初心者においてはお手軽に嗜むことができるし、上級者においても極めて奥が深い娯楽である。

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