失踪に成功した人
Sは、友人の少ない僕にとって、親友と呼べるうちの一人だったが、ある日突然に電話口で朗々と言った。
「俺、決めたんだ。失踪するよ」
いきなり宣言されても困った。事態が全くつかめない。どういうことだ、と訊くと、
「いや、だから、そうするんだよ。そんな感じなんだ。するならできるだけ早いほうがいいだろ。明日から、早速やってみるよ」
とても明るい口調は、失踪などという行為をしようとする者のものとは思えなかった。休み取れたからちょっと旅行に行ってくる、みたいな口調だ。理由を尋ねても、
「だからさ、そうするって決めたんだ。思い立ったら吉日とかなんとか言うだろ。そうなんだよ。こういうのは、思ったときにしてしまわないと、取り返しのつかないことになるからな。それに、明日って晴れだろ。な、そう決めてしまったんだから仕方ないだろ」
などと、よくわからない解説が返ってくる。
別に、彼の行動を規制する理由も権限も僕にはなかったので、そうか、わかったと、声を掛けるしかなかった。あとは他愛もない話をして、電話は切られた。
確かに彼は、失踪したようだった。電話がかかってくることもなかったし、こっちからかけても、一度を除いては、通じることもなかった。
「失踪するよ」という電話の数日後、掛けてみたのだが、「言っただろ、今、失踪してる途中なんだ、もうかけてくるな」と、それだけぶっきらぼうに言われて、すぐに電話は不通になってしまった。
それ以来、しばらく僕は彼の声も聞いていないし、姿も見ていない。
街で知らない男に「よお」と声を掛けられた。「俺だよ」と言われても、それが誰だかさっぱりわからない。
「俺だよ、Sだ」
そう名乗られても、依然としてわからない。確かにSという男が記憶の中に存在していて、そいつが失踪したというのは覚えているが、目の前の男がその人物なのか判別できない。記憶を辿って、Sの顔や喋り方を思い出そうとするが、思い出せないのだった。
「俺、失踪に成功したんだよ。だから、お前、俺のこと思い出せないだろ。誰に話しかけたってそうだ。誰も俺のことを覚えてる奴なんていない。つまり、俺は失踪したってわけだ」
そいつはやたらと朗々と話す。よくわからないが、本人が自分はSだというならそうなのだろう。釈然とは全くしない。
「とりあえず、お前にそれを報告したかったんだ」と、そいつがさっさと立ち去ろうとするので、思わず呼び止めてしまった。
どこに行くんだ、これから、と僕は訊いた。
「どこも行かないさ。ここにいるよ。ずっと俺はこの街にいたんだ」
じゃあな、と言って彼は背を向けた。失踪している身としては、あまり人と長く接していたくないのかもしれない。
元気でな、と声を掛けると、「ああ」と言って、彼はすぐに人混みに紛れた。