熱いものとは何か

胸の奥から熱いものがこみ上げてくるのを感じた

 とある小説を読んでいたところ、「熱いもの」という表現が目に付いた。それは、熱い男たちが新たな物流システムの構築を画策する熱い話なのだが、そんな熱い物語だけに、「熱いもの」は頻出した。
 こんな具合だ。

 「川西は、胸の奥から熱いものがこみ上げてくるのを感じた」

 あるいは、

 「川西の目頭から熱いものが溢れてきた」

 この「熱いもの」とは一体何だ。
 僕が「熱いもの」と聞いてまず思いつくのは、うどんである。

 「川西は、胸の奥からうどんがこみ上げてくるのを感じた」

 たまたま思いついたのがうどんだったのだから仕方ないじゃないか。
 それにしても、画期的な物流システムを模索する熱い話に、うどんは不似合いだ。これじゃただの嘔吐する酔っ払いだ。
 それじゃあ、きりたんぽ鍋ならどうかという話でもなさそうだ。

 「川西の目頭からきりたんぽ鍋が溢れてきた」

 わけがわからない。ダリの『抽き出しのあるミロのヴィーナス』くらいに俄かには理解し難い。
 もちろん、ダリの当該作品については、芸術という領域にまで高められており、抽き出しは女性の性のメタファーであるという意味があるらしいので、安易に理解不能などと口にすることが憚られるのだが、「目頭からきりたんぽ鍋」はかなり理解に苦しむし、いくら思案しても合理的な理解に辿り着くとは到底思えない。目頭からきりたんぽ鍋が溢れている様子を描写したダリの作品があるのなら話は別だが、諸橋近代美術館にもそういったものは所蔵されていないようだ。
 そういう意味で、確かにきりたんぽ鍋は熱く、熱くないきりたんぽ鍋は不味いに違いないが、ここで言う「熱いもの」はきりたんぽ鍋ではなさそうなのである。

 ただ、確かに川西の身体の内からは「熱いもの」が発生し、あわよくば体外に放出されようとしているのだ。どうやら、それだけは事実なのである。
 人体の大半を占めているのは、水である。

 「川西は、胸の奥からお湯がこみ上げてくるのを感じた」

 川西が電気ポットであるならば納得がいくが、そうではないのだった。川西は熱い男だが、小説中に彼が自ら液体を沸騰させた旨の記述は見当たらないし、彼にコンセントが付いていたという情報も読者にはもたらされることはない。

 他にも、ラーメンだとか湯豆腐だとかホットプレートだとかゴビ砂漠だとかマグマだとか9mm parabellum bulletのライブだとか若気の至りだとか考えてみたのだが、どうもしっくり来ない。どれもこれも熱いには違いないのだが、「胸の奥からこみ上げてくる」や「目頭から溢れる」という文脈には即さないようなのだ。マグマが目頭から溢れてくるって、どんな怪物よりも恐い。

 従って、僕はこう結論することにした。

 「熱いもの」は「熱いもの」である。

 英語に直すと「Something hot is only something hot」だ。特に英語に直した意味はない。
 「熱いもの」とは、何は他のものに代えられるものではなく、また、何かの例えや婉曲ではなく、それは「熱いもの」でしかないのだ。
 「熱いもの」を説明できるほど、現在の言語学は進歩していないと考える他ない。

     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆

 孝蔵は、重い体を運び、家の戸を開ける。と言っても、彼の体重が著しいわけではない。むしろ、痩せ型だ。
 今日は今年最高の真夏日になるだろうと、昼飯を摂った定食屋のテレビが告げていた。太陽は地表を照りつけ、アスファルトからは熱いものが揺らめいていた。営業職はこの季節が厳しい。暑苦しいスーツ姿で何件もの担当先に通わなければならない。外気はかなり熱いものであり、陽にさらされる彼の身体も数時間前から熱いものになっていた。滴り落ちる汗も、体温調節の役割を果たすばかりか、彼には熱いものに感じられた。疲労が溜まり、足取りも重くなるというわけだ。
 「おかえりなさい」
 里美は玄関先までやってきて、わざわざ孝蔵を迎えてくれる。
 「今日は、相当熱いものだったでしょ」
 「ホントだよ。昼頃から急に熱いものになって、熱いものったらありゃしない」
 「でもあなた、仕事には相当熱いものね」
 「お前のためだからな。熱いもの携えて仕事しているさ」
 「今日の夕飯も熱いものだからね」
 「おいおい、こんなに熱いものだってのに、夕飯まで熱いものなのかい?」
 「何言ってんのよ。こういう熱いものの日には、熱いものを食べて、心も身体も熱いものにしなさいって、熱いおばあちゃんが言ってたのよ。もう出来てるからね」
 里美は彼の上着を受け取り、着替えを持ってくる。そういえば里美と出会ったのも、かなり熱いものが立ち込める日だったし、二人で熱いものを乗り越えて、こうやって熱いものを築きあげているんだなと、孝蔵は改めて熱いものたちのことを思った。
 孝蔵がテーブルに就くと、里美は熱いもので火傷をしないように、なべつかみを用いて、熱いものである夕飯をテーブルに持ってきた。もちろん、熱いもので焦げないように、テーブルには鍋敷きが敷いてある。
 「お、これは相当熱いものだな」
 「そうよ。昼間から手をかけて、やっとこうやって熱いものに仕立て上げたんだから。これはかなり熱いものよ」
 「いつも、こうやって熱いもの作ってくれて、すまないね」
 「だって、あなたが家に帰ってきて、熱いものを感じられるようにしているからね」
 「里美、俺は今、胸の奥から熱いものがこみ上げてくるのを感じているよ」
 「私も、何だか目頭から熱いものが溢れてきそうだわ」

     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆

 Something hot is only something hot.
 つまり、深く考えるなということだ。


スポンサーリンク

inserted by FC2 system