地球を精神的に捉える時代

「筆舌に尽くしがたい」と宇宙飛行士は言った

 スペースシャトル「ディスカバリー」に乗って宇宙へと飛び立った日本人が、宇宙から見た地球の感想を尋ねられて、「筆舌に尽くしがたい」と答えたそうだが、言うまでもなくこれは、「わかりません」や「うまく説明できません」と言いたかったところを、うまくそれらしいことを言ってごまかしたのではなく、また、わざと直接的な感想を避けることで、地球を歩く我々小市民に意地悪をしかけたのでもない。あるいは、本当に「筆舌に尽くしがたい」と思ってそのように言ったのかどうかも、この際はどうでもいい。
 彼は一言の台詞を、時代に適合したものに仕立て上げるべく、そのような返答をしたのである。

 時代によって、あるひとつのものの表現の仕方は変貌していく。
 「新聞」は、かつては「最新の情報を得ることができるもの」だったが、ラジオやテレビが蔓延してからは、「情報の詳細を能動的に得うるもの」となったし、「マンモス」についても、人類とマンモスが同じ大地に存在していた時代は、「なんかでかいやつ」だったが、現在、膨大な知識を身に付けた我々は、「象に似ていて、もういないやつ」と表現することになっている。マンモスが「でかい」ことには変わりないのだが、それをそのように表してしまうと恐竜やクジラの立場がなくなってしまうのである。
 そして、以上のことは、「地球」にも当てはまる。

「地球は青かった」とかつての宇宙飛行士は言った

 かつて、人類で初めて宇宙から地球を覗いた宇宙飛行士は、「地球は青かった」と言ったらしいが、時が充分に経た今ですらこの台詞は語り継がれている。
 その言葉が名言という位置を勝ち取った所以は、的を的確に射たことにある。我々が暮らす地球という途轍もなく大きなものを、初めて宇宙という遠く離れた場所から目にするのである。当然に、地球にいる者たちが気になるのは、「宇宙から地球を実際に確認したらどうなっているのだろう」ということなのであるが、まさにその問いに対するドストライクの回答が「地球は青かった」だったのである。まさに宇宙への進出の第一歩として相応しい、記念碑的な台詞である。

時代に適合した台詞

 時は移り、現代である。我々は衛星写真などから、「地球が青い」ことはもう既に充分に知っており、常識化している。宇宙へと飛び立って、いまさら「青かったよ」だとか「丸かったよ」だとか「万里の長城が見えたよ」だとか聞かされても、どうしようもないのである。もはや我々は地球については知り尽くしてしまったと言っても過言ではない。
 そんな時代にあって、いかなる台詞を発すれば地球に生きる我々を感動へと巻き込み、ひとつの時代に杭を打ち込むことができるのか。いかなる台詞が今の時代への適切な言葉なのか。
 それへの回答が、「筆舌に尽くしがたい」だったのである。これは当然に、「衛星写真などで地球の姿は幾度となく見てきたが、実際にこの目で地球を見てみると、やっぱり筆舌に尽くしがたいらしい感慨があったよ」ということである。これによって、宇宙に行っていない我々は「なるほど」と思え、納得できるわけである。「地球が青い」ことや「地球が丸い」ことは知っているが、「宇宙から地球を見たらどんな感じがするのか」ということは誰も知らないからである。
 「筆舌に尽くしがたい」という台詞は、一見、曖昧に過ぎ、内容が皆無なように思えるが、違うのである。重要なのは「筆舌に尽くしがたい」という言葉の意味や内容ではなく、「筆舌に尽くしがたい」という言葉それ自体なのだ。それ故、インタビュアーも、「『筆舌に尽くしがたい』とは詳しくはどういうことですか」という当然の突っ込みを入れなかったのだし、各メディアも揃ってその台詞を抜粋して伝えていたのである。
 すなわちこれは、かつては「地球」と言えば「青い」ものだったが、現在は「実際に見ると、感想すら発することができない」ものであると認識する時代であることを告げている。「物理的に地球を捉える時代」から、「精神的に地球を捉える時代」へと転換が既になされているということなのである。

 ただし、だからと言って、別にどうってことはない。「地球について何がなんだかわからなかった時代」も、「地球が平面だった時代」も、「地球が球体であると認識された時代」も、「地球が青いとわかった時代」も、我々は地球の上で特に何の変化もなく生きてきたのである。よって、「地球に対して感慨極まる時代」にあっても、別に何が変わるわけではない。我々は地球の上でただ暮らしていけばいいのである。


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