一輪車に乗れる人はとても凄いということ

支点と安定ついて

 ある物体を安定させるためには、最低3つの支点が必要である。
 例えば、試験などでわけがわからない問題に遭遇した際、問題用紙の裏などに、1、2、3…、などと1問の回答に要請されるマークシート分だけの数字を、放射状に描いた線の間に書き入れ、その中心に鉛筆を立て、手を放す。そして、鉛筆が倒れたところに書かれていた数字を回答として塗りつぶす。こういったことは、誰でも一度はやったことが、あるいはやってみたいと思ったことがあるだろう。これは、立てた鉛筆の支点が1つであるため、極めて不安定であり、どこに倒れるかわからないことを利用して、運に任せて回答しようという試みである。
 支点が2つである場合、その物体は左右のどちらかに倒れる。止まった自転車を考えてもらえれば話は早い。
 従って、自転車に乗る者は誰でも、赤信号などで停車せざるを得ない状況に陥った時は、片足を地面に付ける。そうすれば、前輪、後輪、足、と3つの支点が生じ、自転車が倒れることはないのである。
 あるいは、自動車はタイヤが4つであり、こうなると、安定性はさらに増す。よくわからないが、昔は3輪の自動車があったらしいのであり、「Mr.ビーン」では、この3輪の自動車が笑いの対象としてよく登場する。ビーンの運転する4輪の自動車が危険な運転で3輪の自動車を追い越そうとする。3輪の自動車の運転手は慌ててハンドルを切るのだが、すると安定性を失い、路肩かどこかに突っ込んでしまう。4輪自動車は、颯爽とそのまま駆け抜けていく。支点は3つであるよりも、4つ存在したほうが、より安定するという好例である。

動物の足の数

 多くの動物は4本の足を用いて移動するが、昆虫は6本足である。これはなぜか。
 河合雅雄著『ふしぎの博物誌』によれば、4足歩行の動物というのは、魚から進化してきたのであり、すなわち、足が0本の状態から、進化の過程で上陸し、自らの身体を安定させるために足の数を増やしていったところ、現在の4足に落ち着いたのだそうだ。それに対し昆虫は、ムカデのような多足動物から進化を辿ったのであり、合理的に歩行するために足の数を減らして行き、6本足に落ち着いた。6というのは、3の倍数であり、やはり安定を目指してしかるべき足の数になっていたのである。

 我々人類の場合、少し考えてみればわかる通り、2足歩行である。もちろんこれは、不安定である。おしなべて、不安定な状態を人は不安に思う。
 現在手元にある、でたらめばかり書いてある本には、こうある。
 「立ち上った人間が、そのままよろめくように第一歩を踏み出すのは、二本の足の裏だけで大地に接触しているという不安を解消すべく、三つ目の接触点を得ようとする衝動にほかならない。もちろん、それによって接触面はむしろ減ずるので、さらに不安は増大し、もうひとつの足まで踏み出さざるを得なくなる。つまり人は、このようにして歩きはじめるのだ」
 すなわち、人は、「歩いている」のではなく、正確に言えば、「歩かざるを得ない」状態なのである。
 人間の足というものは、殆どの場合、右と左に1本ずつ付いているが、この2点の支えは不安定であるため、必ず前後のどちらかに倒れてしまう。人には極めて強い向上心が生まれながらにして備わっているため、立ち上がったばかりの幼児でも、間違って後ろに歩き始めることなく、前進することができているのだ。
 ただ、たとえ2足歩行であるとは言え、我々は自転車とは違い、静止状態にあることが、つまり、なぜか立ち止まることができるのである。これは物理的な問題ではなく、精神力の問題である。つまり、忍耐力だ。前後のどちらかに倒れようとする自然の法則に、我々の忍耐力で抗っている。従って、忍耐力のない者は、ずっと歩いている。

一本足の動物とその否定

 ここまで読んで、既に気付いた人もいると思うが、そうである。
 1本足の動物はいない。
 この自然界のどこを見渡しても、1本足で移動する動物は存在しないのである。
 考えられるのは、ミツオハナアルキとカンガルーくらいだが、これらも当然に否定の対象である。

 ミツオハナアルキは、ハイアイアイ群島のミタディーナ島に生息する、鼻行目に属する哺乳類である。ミツオハナアルキを描いた図を見る限り、その身体は1点によって支えられているかのように思えるが、鼻行目の生態を述した唯一の文献であるハラルト・シュテュンプケ著『鼻行類』には、「ミツオハナアルキ属の特徴は、真に固着性の種であるということである。すなわち、彼らは鼻で固着して立ち、ふつうは幼獣期に選んだ付着場所から離れることはない」とあり、つまり、ミツオハナアルキは決して移動しない上に、その場所に「付着」しているのである。
 自らの力ではなく、「粘着性の強い分泌物」のおかげでその場に「付着」し、かろうじて支えられているわけだ。「付着」は、反則である。ボンドでくっ付ければ、鉛筆だって1支点で安定化することができるではないか。

 カンガルーについては、驚くべきことに、あれは一本足で移動しているのではないのである。見た目では、1本足でぴょんぴょん跳躍しているように思えるが、我々はカンガルーに騙されていたのだ。あれは、実は2本足だ。
 以前、テレビで放送されていた「おもしろホームビデオ」みたいなやつを見ていたところ、ぴょんぴょんと跳ねてきたカンガルーが氷の上で滑って、見事に大転倒していたのだが、そこで目撃したのだ。両足を大きく広げて転倒するカンガルーの姿を。
 カンガルーは1本足ではないのだった。

一輪車という驚異的発明

 これで自然界に1本足で存在する生物がいないことが確認されたわけだが、人類は偉大だった。神様でも作り得なかったものを発明していたのである。
 すなわち、それが一輪車である。
 一輪車と言っても、畑仕事で使うやつのことではない。タイヤが一つあり、タイヤの輪の中心部から垂直方向にペダルが伸び、タイヤと水平方向に棒が伸び、その先にサドルが付いているやつのことである。

 現在、人類は自然からの逸脱を試みている。つまり、科学技術やバイオテクノロジーを何が何だかわからないところまで進歩させることであり、もはや、我々一般人にとっては、それらの最先端技術は進歩しすぎてさっぱりわけがわからないことになっている。昔の賢人たちが警鐘を鳴らしたように、「人間は神をも超えようとしている」のである。
 しかしながら、もっと平明で単純な「自然からの逸脱」が、思いがけないところにあった。一輪車である。しかもこれは、「自然からの逸脱」の最先端を突っ走っている。
 我々が科学技術によってなんかすごいものを作り上げようとも、それは自然の中のものを利用しているに過ぎない。原子爆弾とは、その名の通り、もともと自然の中にあった「原子」を用いて作った爆弾に他ならないのだ。同様にして、いくら我々が遺伝子組み換え技術を進歩させようとも、それはもともとあったゲノムをただ操作しているだけである。
 だが、一輪車は違う。もともと自然は、2足歩行の人間を生み出すので精一杯であり、「1本足の生物」を考案し、作り出すなんてさっぱり思いつかなかったのだが、そこで人類が、一輪車という「1本足で動くもの」(注1)を革命的に発案(注2)し、現に作り出したのである。一輪車は、「足」という概念にコペルニクス的転回をもたらしたものであり、自然を超越した発明品であると言えるだろう。

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 (注1) 昔、一大ブームになったらしい「ホッピング」も「1本足で移動し得るもの」だが、残念なことに、これに乗っている間は両手が使えない。人間の最大の特徴にして、人間が人間たる所以は、2本足で立ち上がったおかげで「両手が自由に使える」ことなのであり、1本足で移動できるようになったからといって、その代わりに両手が使えないのでは、元も子もない。

 (注2) ちなみに、「セグウェイ」は「20世紀最大の発明」として一時、大変な話題となったが、あんなものは一輪車の革命性に比して言えば、全くどうということはない。セグウェイは2輪なのである。

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一輪車に乗ることのできる者に最大の敬意を表するべき理由

 従って、我々のうちには「一輪車に乗ることのできる者」と「一輪車に乗ることのできない者」が存在するが、前者のほうが、飛躍的に「人間として先に進んでいる」とみなすことができる。
 「ヒトゲノムについて熟知している者」や「超ひも理論を理解している者」など、その足元にも及ばない。繰り返すようだが、ヒトゲノムについて詳しくても、それは自然に「もともとあった」ものを知っているに過ぎず、超ひも理論にしても、自然に「もともとあった」宇宙というものの考え方を知っているに過ぎないが、一輪車については、自然に「もともとなかった」もの、つまり、人類によって一から考案されたものを乗りこなせているということになるからである。しかも、冒頭でも述べたように、1支点のものはそのままにしていれば必ず倒れる運命にあるが、一輪車に卓越した者は、倒れない。「自然からの逸脱」だけでなく、「自然に勝った」状態でもあるわけである(注3)。

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 (注3) 2足歩行の人間も、忍耐力によって「立ち止まる」ことができている時点で、「自然に勝っている」状態であることに違いはないのだが、一輪車において「倒れない」ということに比して、それはあまりにも貧弱な「勝ち」であることは免れ得ない。2支点では、左か右あるいは前か後ろのどちらかに倒れる可能性を内包しているだけだが、1支点では、どこに倒れるかわからない。当然に、前者において倒れなかった場合は、「左に対する勝ち」と「右に対する勝ち」(あるいは、「前に対する勝ち」と「後ろに対する勝ち」)の左と右(前と後ろ)の2方向に対する勝利だけだが、1支点の場合、想定され得る傾倒の方向は無限であるから、それにおいて倒れなかった場合、「無限に対する勝ち」となるわけだ。
 どちらの「勝ち」がより勝っているかは明白である。

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 一輪車を華麗に乗りこなしている者を見た際には、最大の敬意を表すべきである。その者は、「先輩」でもなく、「上司」でもなく、「会長」でもなく、「国王」でもなく、「皇帝」でもなく、それらを本質的に凌駕した、「人間として進歩を遂げた者」であるのだ。
 また、もし我々の向上心が最大限に発揮され、2足歩行ではなく、皆が一輪車に乗って自由に移動できるようになったら、その際は、「進化」などという自然の成り行き任せの進歩ではなく、まさに人類自らの確固たる意志のもとに人類全体が一段階ステップアップできたということになるのではないだろうか。
 ちなみに私は、一輪車には全く乗れません。


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