くしゃみのミステリー

くしゃみと咳の相違点

 くしゃみについて語るとき、まず留意すべき点は、咳と同じ直線上で捉えてはいけないということである。我々はどうも、くしゃみは咳の延長線上にあるものであり、咳が発展し、より強力になったものがくしゃみであると考えがちなようだからである。これは間違っている。咳とくしゃみは全く別のものであり、相関関係はないとみなして良い。

 我々は諸教育課程において、風邪をひいたらマスクを着用せよと教わったが、その根拠として、我々の唾液にウイルスが含まれているからであると習った。咳をした場合、ウイルスを含んだ唾液は3メートル程度飛び、くしゃみの場合、8メートルの飛距離を持ってウイルスは拡散する。ただし、それはマスクなしの場合である。従って、ウイルスを拡散させず、周囲の者に伝染させないためにもマスクを着用しましょうという流れである。そう、これこそ我々が咳とくしゃみを同じ線上で認識するようになってしまった所以である。本来、全く別のものであるはずの咳とくしゃみがお互いに比較の対象になってしまっているのだ。
 だからといって、この教育方法が間違っているということではない。もし風邪におけるこの教育を廃止してしまったら、マスクの着用率は低下し、全国の風邪人口を激増させ、病院と薬局以外の経済活動が破綻をきたす恐れも孕んでいる。ここで言いたいのは、咳とくしゃみの本質をきちんと捉えた上で、咳をし、くしゃみをすべきではないかということなのである。

 確かに両者とも風邪を患ったときに発現し得る症状だが、咳は喉に起因するものであり、くしゃみは鼻に端を発するものだ。少し考えればわかることだが、喉と鼻は器官として全く別の役割を果たしている。
 ごく簡単な例を挙げれば、納豆を嫌悪する者がそれを食べなければならなくなったとき、鼻をつまんであの臭いを回避することができれば、彼は何とかそれを口にすることができようが、逆に、喉をつまんでしまっては臭いをかがされた挙げ句に食べることすらできないのである。それは、拷問に近い。喉と鼻を取り違えただけで、このような天と地ほどの差を以って結果を生み出すのである。
 さらには、これが一番の特徴なのだが、咳は任意に出すことができるが、くしゃみは不可能ということが挙げられる。つまり、何でもないときに咳を出すには喉を使って「ゲホッ」とやればそれらしいものが成立するが、くしゃみはいくら勢いをつけて「はくしょん」とやったところで、くしゃみには到底及ばない、ままごとのような何かが発されるだけなのだ。もちろん、こよりを使えばくしゃみを任意に出せるじゃないかという意見もあるが、こよりを使って出るのは「まさに」くしゃみなのであり、それは任意ではない。

くしゃみのエネルギー

 咳は、その当人が病人であることを周囲に知らしめるために発現されるが、くしゃみはそうではないというのが私の考えである。咳に対してくしゃみはその頻度が低いから、上記のような機能を果たすには心許ないと考えざるを得ないからである。
 くしゃみをしたら肋骨が折れた、という者が稀にいるらしい。くしゃみのエネルギーがあまりにも大きすぎて、肋骨にまで重大なる負担をかけてしまった結果なのだろう。肋骨を折ろうとして肋骨を折る者はあまりいないだろうから、そのくしゃみは、当人の意志とは関わりなく発動されたものだと考えてよさそうだ。そして、そのエネルギーすらもその当人はコントロールすることを得ずに、結果、肋骨が折れた。くしゃみは我々の管理下にはなく、くしゃみ自体が独立した意志を持って発動されるということだ。
 それは、こよりを使って自発的にくしゃみへを導いた際にも同様である。鼻にこよりを入れるのは当人だが、くしゃみはそれ自体として我々の意志とは関係なく発され、そのエネルギーも我々は制御することができない。肋骨を折ろうとして鼻にこよりを入れたわけではないにも関わらず、やってみたら肋骨が折れてしまった、ということもあり得る話なのだ。
 つまり、そのくしゃみは、我々の肋骨を犠牲にしてまで表現されなければならなかったということである。肋骨は、我々の生命を司る心臓を保護するために存在するのであり、それが破壊されるということは、かなり重大な事態だと考えて良いだろう。

くしゃみと超自然的な力

 英語圏の人々は、誰かがくしゃみをした際は「(God) bless you!」と声をかけるのが慣わしになっているらしい。「神のご加護を」という意味だが、神などという偉大なものが登場していることに注目したい。ここ日本でも、噂話をされている者はくしゃみをするという言い伝えがあるようだが、その根拠は不明として、なにやら超自然的な力がそこにはあるように思える。
 くしゃみを発することが我々の意志のよるものでないとなれば、考えられることは、神的なものや超自然的な何物かが我々をしてくしゃみを出させているということである。目に見えない何者かが、我々の身体に働きかけ、あるいは我々の身体を借りて、何らかのメッセージを発しているとは考えられないだろうか。

「はくしょん」とは何か

 手がかりは、そう、「はくしょん」である。それに全ての答えが詰まっているようである。くしゃみには我々の肋骨をへし折ってまで、我々に「はくしょん」と言わせなければならない理由があった。
 「はくしょん」である。
 「はくしょん」か。
 「はくしょん」とは何だ。
 「はくしょん」はいくら考えても「はくしょん」でしかないように思えるし、考えているうちに何だか間抜けな気分になってくるのだった。だが、くしゃみはその正義感、或いは責任感から、今も我々に「はくしょん」と言わせ続けている。
 「はくしょん」とは何か。それを僕は知りたいのだ。
 ちなみに英語圏でのくしゃみの表現は「Achoo!」だそうだ。謎は深まるばかりだ。


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