ようこそ白沢村へ

村はいつまでも村であってほしい

 村には感慨深い独特の風情がある。都市部に生まれて、都市部で育ち、そこを出ることなく一生を終える者は、全くもって不幸としか言いようがない。村には彼らには決して味わうことのできないものが、多く散らばっている。

 例えばこんなものがある。

 ――色褪せすぎてオレンジ色になったポスト。

 さすが村である。桁違いの貫禄だ。
 誤解のないように述べておくが、これは新しいポストを設置するための費用の捻出だとか、財政問題だとか、そういったカテゴリー内で論じられるべきことではない。その村を、村たらしめているのがそのオレンジ色のポストであるとすれば、そのポストはオレンジ色でなければならなかった。すなわち、そのポストが設置されている村は、自らの村が誇りを持って村であることを極めて的確かつ真摯に自覚しており、その一見では不憫に見えるポストを再び赤く塗装するための、あるいは新しく設置し直すための財政的支出を渋っているのではなく、そこにあるにしかるべきものとしてその色褪せたポストをその場に置いているのである。これこそが村のあるべき姿勢であり、あるべき思想である。

 あるいはこれだ。

 ――「山神」と楷書で綺麗に彫られた石。

 これが路上の片隅にあったのだ。全くわけがわからない。「山神」とは、文字通り「山に鎮座する神」の意であるが、その石があった場所は山中でもなく、神を奉る場所でもなかった。何の変哲もない道路沿いの空き地に、木に立て掛ける形で存在したのである。どういうことだろうか。
 ただし、村にはそういったわけのわからないものがたくさんあるので、こんなことごときで驚いてはいけないのだ。これが都市と村との最大の相違点であると言えるだろう。
 合理性を追求する都市においては、理解不能の、誰の役に立つのかわからないものがあれば、即刻撤去されるという運命にあるが、村では事情が違う。放置されっぱなしなのだ。有用性のあるなしに関係なく、村においては全てほったらかしにされる。村とは、いわばほったらかしの集積であり、それによりその場所を村たらしめている。そして、最終的には、上のオレンジ色のポストの事例のように、「放置するのが村である」という演繹的論法によって、物事はさらに放置されるべくして放置され、その場所は村たる様相を濃くしていく。これが村が形成される歴史であり、村が魅力的になっていく過程である。

 近年の政府主導による市町村合併により、村の数が激減する見込みであるという。これは村愛好家にとっては由々しき事態であるが、彼らを勇気付けるメッセージが一つの村から発せられていた。僕の育った町の隣村にあった看板である。

 「ようこそ白沢村へ 限りなく躍進する村」

 村はいつまで経っても、たとえ躍進したとしても、村のままなのである。


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