がんばれ茄子

茄子とはどういう野菜か

 茄子である。野菜のナスだ。
 特筆すべき栄養価も含まれていないし、それ自体がおいしい要素を含んでいるわけでもない。「漬物にするとうまい」だとか、「焼いて食べるとうまい」とか言う者が時々いるが、もちろん、彼らの言い分を否定するのは間違っている。ただ、少し考えればわかるとおり、それらの食べ方については、「茄子がうまい」のではなく、「浅漬けの素の味がうまい」のであり、「こげ醤油の味がうまい」のである。
 つまり、人々が茄子を食するに当たっての思考の順序としては、「浅漬け」あるいは「こげ醤油」が「茄子」に先行する。「茄子を食べるぞ」と茄子を食べるのではなく、「浅漬けを食べるぞ、茄子でいいか」または「こげ醤油を楽しむぞ、茄子かな」だ。茄子を食べるべくして食べるのではないのである。
 殆どどうしようもない食べ物が茄子である。

誰が茄子を好きか

 「茄子が好き」という人など本当はいないのではないか、というのが私の考えである。もともとみんな茄子が嫌いなのである。しかしながら、「嫌い」の中でも「ま、普通に食べれる」という者が稀におり、彼らが時々、思い出したように茄子を食べるのである。
 茄子は、平安時代には貴族たちによって食されていたらしいが、平安貴族というのは、殆ど暇であり、それなりに裕福であった。これは現代にも全く同じく嵌め込むことができる。
 殆ど暇で、それなりに裕福。
 毎日同じものばかり食べていては、退屈が増すだけではなく、食卓という目に見える場所に退屈が顕在化してしまう。そして、お金には困っていない。最高の贅沢とは、全く意味のないものに財を投資することである。
 「じゃ、たまには茄子でも」。そうなるのは当然の結果だ。
 みんな茄子なんて嫌いなのだが、退屈な毎日に刺激を与え、ほんの少し贅沢をした気分に浸るために、茄子を食べる。もちろん、本当に茄子が嫌いで、生理的に受け付けない者は決して食べないわけだが、「ま、普通に食べれる」層の者たちは、なんとなく茄子を食べる。そんな状況から、「ま、普通に食べれる」層の者たちが相対的に持ち上げられ、「茄子が好き」とみなされたわけだ。
 私は先日、茄子を毎日三食欠かさず、50年に渡って食べてきたという藤田八十吉さん(83歳、仮名)に「あなたは茄子が好きですか?」と尋ねてみた。彼は虚空を見つめ、ややあってから「…いや」とだけ答えたのだった。その日から八十吉さんは、茄子を全く食べなくなったという。

「ボケナス」の真意とは

 我々の、特に言葉遣いの荒い者においては、相手を罵倒する際に、「このボケナスが!」などと言ったりする。「茄子」と「ぼけ」の相乗効果だ。すなわち、「全く役に立たない茄子というものが、さらにはぼけていて、全く救いようがない」という意味である。「ばかやろう」は、ただ単に「ばか」になんとなく語呂合わせで「野郎」を付けてみただけの言葉であり、「ばかたれ」は、「ばか」に「たれ」を付けてはみたものの、今となってはさっぱりわけのわからない言葉であるが、「ぼけなす」に関しては上記の通り、真意が明確である。
 もし誰かに罵倒された際、「ボケナスが!」と言われたら、かなり落ち込んだほうがいい。言われた者は、もともと「茄子」であったのであり、さらに悪いことに「ぼけて」しまっていたのである。これほど人を落胆させるに相応しい言葉は、滅多にない。

茄子にはなぜトゲがあるのか

 ところで、茄子にはトゲがある。あれはかなり鋭利であり、しかもかなり思いがけないものであるので、刺さったときの衝撃と痛みはひとしおだ。
 先に述べた通り、茄子は殆どあってもなくてもどうでもいい食べ物であり、人々がそれに接する際にも、かなりぞんざいな扱いになる。「ちょっと、そこの茄子とって」と言われれば、大抵の者はその茄子をわしづかみにし、ぶん投げて渡すのであり、食品スーパーにおいても、殆どの場合、茄子はぶん投げて陳列されている。過去に野球チームが存在していた某スーパーマーケットでは、その元投手は「茄子の陳列係」として、第一線で活躍している。
 茄子の戦術は失敗に終わったと見ていい。驚くべきことに、茄子にトゲが出現したのは、人間に食べられるようになって以降のことなのだが、あまりにも人間における茄子の扱いがひどいので、トゲで武装することによって、その身を防衛しようと試みたのである。また、「ボケナス」という表現に憤慨したのかもしれない。茄子などという野菜を食べるのは人間だけであり、攻撃の対象は人間であるとしか考えられないのだ。
 しかしながら、人類はどんどん裕福になっていき、退屈を解消するために、ちょっとした贅沢を味わうために、ますます茄子を必要とするようになった。しかも、茄子の攻撃手段はただの「トゲ」であり、ちょっと気を付ければたいしたことはない。「人間の裕福さ」が「茄子のトゲ」に勝利した。茄子の抵抗も空しく、その消費はますます拡大していき、扱い方も改善されないまま、現在に至る。

茄子にはどんなエネルギーが秘められているか

 ここで注目すべきは、一見ただの空虚な野菜であると思われていた茄子だが、思わぬエネルギーを秘めていたということである。自らの身にトゲを出現させるなどということは、なかなかできるものではない。
 しかも、茄子は奈良時代に中国から日本に伝わってきたのであり、その頃の文献において「茄子にはトゲがある」と記されている事実は確認されていない。従って、ぞんざいな扱いをされ、トゲを発生させたのはそれ以降のことであろうと推測される。つまり、たった1000年近くの間にあの鋭利なトゲを完成させたのである。サイだって、シカだって、バッファローだって、長い進化の過程でやっとツノを勝ち取ったというのに、である。
 加えて、そんなに迅速に防衛するための対応をできるということは、茄子はかなりの知性の持ち主ではないかと思われる。人々が、「ボケナス」と、茄子が出来損ないであることを揶揄して言っていることに痛憤し、地味な復讐のためにトゲを生やしたというのなら、なおさらである。茄子は、人間の言語を理解しているということになるのだ。

なぜ茄子を励ますのか

 その仮説が正しいと証明されれば、現在スーパーマーケットにて「音楽を聴いて育ちました」のキャッチコピーで販売されている「メロディーみつば」を超える傑作、「みんなに励まされて育ちました」の「がんばれ茄子」がいずれ販売されてもおかしくはない。当然に、人間に対する憎悪のエネルギーがトゲを生んだように、人間に対する親和のエネルギーを用いれば、茄子自身の力でもっと自らをおいしく育成させることも可能なのだ。その親和のエネルギーを最大限に引き出すために、みんなで励ます。そうすることによって、同時に、その鋭利なトゲも次第になくなっていくであろうし、全ての者が「茄子が嫌い」という現在の状況も打開されていくだろう。

 現在、人口世界一の中国が次第に裕福になりつつある状態であり、すなわち、茄子の消費が飛躍的に伸びるであろうと予測されている。これに危惧を抱いているのは、もちろん、茄子自身である。
 茄子はそれに備えて、「トゲ」に続く攻撃手段、「爆弾」を思案している。茄子に刺激を与えた瞬間に大爆発だ。
 そんなことにならないためにも、みんなで茄子を励まそう。がんばれー。


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