新聞と駄洒落の関係について

ある日の新聞で見つけた駄洒落

 先日の読売新聞の「編集手帳」にこうあった。朝日新聞の「天声人語」みたいなものである。

 「テレビで小泉首相の顔を見れば、「オイシイ、ツクヅク」とも、民主党の岡田前代表が映れば、「バンジキュース、バンジキュース」とも聞こえたツクツクボウシの声を、きのうは耳にしなかった。」

 駄洒落である。しかも、かなり無理があるし、全くおもしろくない。どうしてこんなくだらなく、単なる思い付きで書かれたかのような文章があえて掲載されてしまったのだろうか。

なぜ新聞に駄洒落が掲載されたのか

 少し考えてみると、新聞というものにこんなどうしようもない駄洒落が盛り込まれたのは「ネタ切れ」などのせいではなく、あくまでも自然なこととしてなされたということであることがわかる。すなわち、「新聞ですら駄洒落を言う」のだ。なぜなら、天下の読売新聞が、「やっつけ」で書いた記事を掲載するなどという無責任なことをするわけがないのであるし、「なんとなく思い付いた」というような安易な駄洒落を全国の読者に向けて発信するなどということはあり得ないのである。この駄洒落が、読者を爆笑させたか寒々しくさせたかは別問題として、これが必然的に掲載されたということは、ほぼ確実に言えそうである。

 僕は、新聞はほぼ見出ししか読まないし、政治面などは見出しすら読まないのだが、そう考えてみると、記事を詳細に読んでみれば実は駄洒落の嵐になっているのかもしれない。特に政治などの一見硬いイメージのある記事に限って、それを愉快な風に記載して読みやすくすべく、記事の正確性や情報量よりも、むしろそういった試みに力を入れている可能性があるとしてもおかしくはない。
 そういえば、冒頭で抜粋した「編集手帳」における駄洒落も、文章の流れを脱線させてまでも無理矢理に政治に結び付けている節があった。

新聞を読み漁る人たちの心理

 そうだとすれば、新聞を夢中で読む者の行動が解明できる。彼らは、常に最新のニュースを追いかけているというわけではなく、シュールや不条理、あるいはその他の新しく複雑な笑いについていけなくなったために、最もベタでわかりやすい笑いである駄洒落を求めて新聞を夢中で読んでいるのである。
 「笑い」は深層心理学的には退屈を象徴するらしいから、この退屈の時代にあっては、笑いは万人にとって極めて重要な位置を占めている。世間についていけなくなった中年男性たちが、トイレに持ち込んでまで新聞を読むのは笑いを確保するためであるのかもしれないし、彼らが駄洒落を言いがちであることも「新聞の読みすぎ」ということで説明がつくのであり、政治に異様な関心を示す傾向にあることも容易に理解できるのである。

 ただ、僕は政治面は一文字たりとも読んだことがないし、今後も読むつもりはないので、真相はわからない。


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