ストラテジーのその意味を含めたかっこよさ

かっこいいストラテジー

 「ストラテジー」という言葉がかっこいい。その語感というか、「ストラテジー」と口に出して発すると、何らかの説得力を持つような、とても重く、勇壮な響きがある。
 例えば、ある者が「毎日上司に怒られるし、歩いていると雨が降ってくるし、並んでいると割り込まれるし、全然いいことがない」と嘆いていたとする。唯一の友が彼にこう助言するのだった。
 「お前に決定的に足りないのは、ストラテジーだ」
 何だかよくわからないのだが、そう言われれば、「そうか、俺にはストラテジーとかいうやつが不足していたから、だめだったのか」と目が覚めるだろう。そんな有無を言わせぬ圧倒的な力が「ストラテジー」にはあるように思える。

ポーの間抜けさ

 「ストラテジー」がかっこよくあるためには、当然ながら「ストラテポー」ではいけなかった。どう考えても「ポー」は間抜けだからだ。別に僕は「エドガー・アラン・ポー」を侮辱しているわけではない。

 書店には、大抵の場合、背表紙をこちらに向けて本が陳列されている。背表紙には書名と著者が記されており、我々はそれを見てその本が何であるかを認識でき、手に取ることが容易になる。
 確かあれは新潮文庫だったと思うが、海外の本が並んでいる棚を見ていた。そこで、見つけたのだ。著者の名前のところにこうあった。
 「ポー」
 何事かと思った。人名をして「ポー」とはどういうことだ。馬鹿にしているのかと思い、手にとってよく見てみると、「エドガー・アラン・ポー」のことだった。
 自分の名前を日本語で「ポー」と記されて書店に平然と陳列されていることを、当人が知っているのかどうか、また、それをエドガー自身がどう感じているのか、僕は知らない。僕が知っているのは、「ポー」は、たとえそれが偉大な作家の名前であろうとも、間抜けに聞こえるということだ。

ジーのダサさ

 ということは、「ストラテジー」においては、「ジー」が肝要であり、そのかっこよさの重きが占められているのかというと、そうでもないらしい。「ジー」とつく言葉は他にも数多あるが、「バイオロジー」や「エレジー」がかっこいいとはどうしても言い難いからである。「バイオロジー」という響きには、得体の知れないものがぶくぶくと湧き上がってくるようなイメージがあるし、「エレジー」は何だかいやらしい。
 では、「ストラテジー」の勇ましさは、「ジー」以外の部分にあるのだろうか。いや、それも違う気がする。ただの「ストラテ」が、果たして荘厳な響きを持つだろうか。
 全国の40代以上の主婦1000人に、「『おい、そこのストラテ取ってくれよ』と夫に言われたら、何を渡しますか」というアンケートを実施したところ、有効回答のうち実に90%以上が「ステテコを渡す」と答えたのだった(少数回答としては、「ストレイテナー」とか、「スターバックスのカフェラテ」というのがあった)。つまり、「ストラテ」≒「ステテコ」ということになる。
 「ステテコ」は、その語感も、実物も何だかダサい。ここで三段論法を用いれば、

  「ステテコ」は、ダサい。
  「ステテコ」は、殆ど「ストラテ」である。
  従って、「ストラテ」は、殆どダサい。

 となる。
 つまり、「ストラテジー」のかっこよさは、「ストラテ」という一見拍子抜けした言葉と、「ジー」というありふれた言葉が融合されて生み出された奇跡だということになる。

ストラテジーのかっこいい意味

 そして、驚くべきことに「ストラテジー(strategy)」という英語は「戦略」という意味なのである。これが「ストラテジー」という言葉の重さに多大なる付加価値を添えているように思えてならない。「ストラテジー=戦略」という構図が内包されている「ストラテジー」に魅力を感じるのであって、仮に、「ストラテジー=お好み焼き」だったら、僕はこんなにも「ストラテジー」に凛とした印象を受けず、感興がもたらされることもなかったであろうと殆ど断言できる。
 道頓堀に、「ストラテジー」を食べに行く。そこにはきっと、「豚玉ストラテジー」や「ぷりぷりえびのストラテジー」があるのだろう。そんなものは「ストラテジー」の名をもって廃る。言語としての響きはいいが、奥深さが感じられないのだ。まして、店員が「ぽんぽこぽん」などと言おうものなら、「ストラテジー」の価値は即刻崩壊するだろう。「ストラテジー=お好み焼き」でなくて、本当に良かったと僕はつくづく思う。
 「ストラテジー」は「戦略」である。極めて高度で、知的な言葉だ。辞書によれば、「長期的な計略」という意味だそうだが、ここは「長期的な」というのがポイントだろう。我々はつい、短絡的で刹那的に物事を捉え、思考しがちだ。だが、「ストラテジー」は違う。「ストラテジー」は、頭をフル回転させ、常に冷静で客観的な姿勢を貫かなければ得ることができない。人生のうちで「戦略」という態度で事象に立ち向かうに機会が果たして何度あるだろうか。惰性に甘んじる人生の中に「ストラテジー」は存在しない。「ストラテジー」は果敢なのだ。

 もちろん僕が言いたいのは、「ストラテジー=戦略」がかっこいいということではなくて、ただ単に「ストラテジー」という語感がかっこいいということだ。たまたま、それが「戦略」という意味だったので、「さらにかっこよくなった」或いは「かっこよさが裏付けられた」のである。
 だから、「ストラテジー=お好み焼き」でも、もちろん、「ストラテジー」の魅力は充分すぎるほどある。ただ、「戦略」であると知ってしまった以上、「お好み焼き」は受け入れられないだろうということなのだ。もし仮に「ストラテジー=雑巾」だったら、僕は英語という言語を根底から疑うだろう。だが、それでも「ストラテジー」の魅力は色褪せない。「ストラテジー」は相対ではなく、絶対的なものだ。

ストラテジーをかっこよく使いこなすために

 もし機会があれば、「ストラテジー」と口に出して言ってみることをお勧めする。胸のうちから勇敢な何かが湧き上がってくるのを感じることができるだろう。なぜなら、それは「ストラテジー」だからだ。真っ白なTシャツに「ストラテジー」と派手に書いたものを着て出かけるのもいいだろう。思い切って右肩に「ストラテジー」と刺青をしてもいいかもしれない。
 実は僕は、数年前から、「日常会話の中で『ストラテジー』と口に出して、知的な印象を与えよう作戦」の実行を思案しているのだが、なかなかうまくいかない。まず、「ストラテジー」などと使う機会がないのだった。いまだかつて僕は「ストラテジー」と言うことに成功していない。
 もちろんこれは、「ストラテジー」という言葉を知らない世間一般が悪いのではなく、その言葉を使いこなせない自分が悪いのだ。つまり、僕が「ストラテジー」を自由自在に操れるほどのレベルに達していないというしか術はない。
 だが、しかるべきレベルに達していなければ「ストラテジー」を使っていけないのかというと、そうではない。「ストラテジー」は全ての人々に解放されている。「ストラテジー」は自由だ。初心者は、まずは飼い犬にでも「ストラテジー」と名付けて毎日呼んでみるところあたりから始めるのが簡単でいいだろう。全てはそこから始まるのだ。
 最終的には「ストラテジー=戦略」の意味で「ストラテジー」という言葉を駆使して、会社役員の前や国会でプレゼンできるところまでレベルアップを図りたい。そうすることで、我々はかっこよくなれるし、ともすれば、「ストラテジーある人生」を送ることができるのだ。少なくともそれを僕は「かっこいいな」と思うだろう。「ストラテジーある人生」がかっこいいのではなく、「ストラテジー」がかっこいいのだ。


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