大会と選手宣誓に関する考察

メリハリのない大会

 今、考えているのは、「大会」についてである。
 例えば、子供の頃、「体育大会」などというものがあった。それが催されるにあたっては、それに参加する生徒たちが運動場に整然と並び、厳かな雰囲気の中で開会式が行われ、選手宣誓がなされたのを覚えている。
 私の中で、「大会」と「選手宣誓」は、なぜか密接に結び付いていたのだった。
 だから、世界史の教科書で、中国において1921年に「第一回中国共産党大会」が開催されたという記述があれば、中国の共産党員たちが運動場で、強い日差しの中で半袖の運動着を身に付け、毛沢東か誰かが右手をすらっと挙げながら選手宣誓する光景を、つい想像してしまうのだ。
 某スーパーマーケットにおいては、「駅弁大会」なるものが往々にして開かれていた。全国の有名駅弁を集めて、販売してしまおうという試みである。当然に、僕はそのフレーズを聞いたときには、誰かが選手宣誓をし、それから「駅弁大会」が開催されるのだと想像していた。
 だが、違った。
 誰かが選手宣誓をしているところなど、一度も見たことがない。
 そういえば、「お野菜バラ売り大会」の現場に私は偶然にも居合わせたが、誰も選手宣誓はしていなかったし、私もした覚えはない。選手宣誓のないまま、いつの間にか「お野菜バラ売り大会」は始まっており、閉会式もないままにいつの間にか終わっていた。もちろんその際、「玉ねぎ」が一番売れたからといって、玉ねぎが表彰されたりはしていなかった。なぜなら、閉会式がなかったからである。
 大人の世界においては、大会が開かれたからといって、必ずしもそれに選手宣誓は付随しないのである。大会は、知らぬうちに開かれ、気付いたら終わっているのだ。

現在の大会を是正するために

 言うまでもなく、これはかなり堕落した事態である。知らぬ間に始まり、いつの間にか終わっている大会など、大会の名を以って廃る。そんなものは大会でも何でもない。
 ただの「集会」ですら、始まりと終わりの挨拶くらいはあるのである。だが、現在の大会には、それすらもない。
 やはり、ここはもう一度「大会」の意義を我々自身が問い質すべきであろう。そして、開会式と閉会式を執り行うのは当然として、ただの集会との格の違いを見せ付けるべく、「選手宣誓」を行うべきであると私は考える。それが、正しい大会のありかたである。
 教育課程の中で我々は「大会」を学び、その中に「選手宣誓」が存在することを学んだ。国語で理解力を、数学で数学的思考法を、社会で現在の我々を取り巻く環境とその成り立ちを、体育で体の動かし方を、部活動で協調性を、生徒会活動で組織の運営方法を学び、そしてそれが大人になった今、生かされていることを思えば、大会で学んだ「選手宣誓」も生かされてしかるべきなのではないだろうか。

なぜ選手宣誓は恥ずかしいか

 そこで問題となるのが、選手宣誓の方法である。
 一人の代表人物が皆の前に出て、主催者らしき人物の面前で、手を天に向かってぴんと挙げ、大声で宣誓文を叫ぶのである。
 大人の羞恥心をかき立てる三大行為というものがあり、それは「走る」「手を挙げる」「大きな声を出す」だが、「選手宣誓」には、そのうちの全てが含まれているのである。選手宣誓をする者は、小走りで選手宣誓台まで掛けていき(拳を握り、両腕を曲げて脇腹のあたりに手首の内側を付けるという謎の走り方も羞恥心を助長する)、手をぴんと天に向けて、大きな声で選手宣誓文を叫ぶのであり、もうこれは羞恥のダイナミクスであり、これ以上にない辱めとも言える事態になっているのだ。
 もちろん、私はここで、「だから、もはや大会において選手宣誓をすることは困難であり、殆ど不可能だ」と言いたい訳ではない。むしろ、逆である。
 大人が「走る」「手を挙げる」「大きな声を出す」を恥と認識するようになったのは、彼らの世界の大会において、選手宣誓が行われなくなったためであると、私は推測するのである。つまり、恥ずかしいから選手宣誓をしなくなったのではなく、何らかの原因により選手宣誓をしなくなったのち、彼らにおいて「走る」「手を挙げる」「大きな声を出す」機会が殆ど抹殺され、従って、それらを羞恥と感じるようになったというわけである。

大会の今後

 この際、なぜ選手宣誓をしなくなったかということはどうでもいい。なぜなら、私は大会のあるべき今後を語っているからであり、つまり、大会の堕落のおける抜本的な解決策を拓こうとしているのである。
 従って、そのためには、まず私がパイオニアとなり、来たる「お野菜バラ売り大会」において、選手宣誓をすることから全てが始まるのだろう。そうすれば、その「お野菜バラ売り大会」は、「大会」たり得るのであり、「お野菜」を救うことになるかどうかはわからないものの、少なくとも「大会」の本質を救うことにはなるのである。
 ただ、ようやく私にも後輩ができたので、そいつに任命しようかとも密かに考えている。だって、恥ずかしいのは嫌なのだ。

 これから何らかの大会に参加することがあったとしても、それらの殆どは、もはや大会としての地位が危ういものであろう。私が期待するのは、各人において自らが「集会」ではなく「大会」に参加しているのだという意識付けと、その堕落を食い止めるべき率先した行動である。
 そうすることにより、その大会は、紛れもない大会となるのであり、堂々と胸を張って「大会に参加してきた」と報告することができるのである。


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