退屈な時代と格闘技ブーム

 格闘技ブームである。年末に民放各局がこぞって格闘技番組を放送していたのを覚えているし、今でも特番が組まれたりしている。
 なぜここまで格闘技は熱狂的支持を得ることができたのだろうか。
 それには恐らく、「退屈」と言う問題が横たわっている。

ラース・スヴェンセンにとっての退屈

 ノルウェーの哲学者ラース・スヴェンセンの著した書物によれば、神への信仰を捨て、労働が生活の基本になった現代は、我々にとって退屈が極めて身近な問題になった時代なのだという。
 我々が退屈を解消したがっているようであるのは確かである。暇を潰すために、ステレオタイプなドラマツルギーで構成されたハリウッド映画を観たがるのであり、別におもしろくもないお笑い番組を「おもしろい」と言って眺めるのであり、友人たちと戯れに興じるのであり、流行に乗るのであり、あるいは、労働に打ち込むのである。
 これらの営みは、退屈の時間を忘れさせてくれる事象にはなり得るものの、退屈を消し去ることに直接繋がりはしない。単なる時間潰しであり、その時間が過ぎれば再び虚しさが去来するのである。特に近代化社会における労働は人間の機械化に他ならず、退屈を創出する起源なのであり、それにのめり込んだからといえども、決して退屈を抹殺することはできない。

 同様にして、我々はニュースなどで流れる凶悪犯罪や衝撃映像に関心を抱くのだが、これらは「暴力」というカテゴリーに分類できる。暴力という刺激を受けることでそれを解消しようとする試みの表れである。退屈は極めて退廃的なものであり、退屈を解消するためならどんな戦争や惨事が起こってもそれを許容できると、我々は心の内に思っている。退屈の時代にあっては、暴力は「面白い」以外の何物でもないというのがラース・スヴェンセンの主張だ。

暴力と退屈

 そこで、格闘技ブームである。暴力は、我々の日常においては許されてしからぬものであるが、格闘技においては違う。リング内でのみ許された暴力により対戦相手をねじ伏せ、それにより勝敗が決まる。相手を殴り、蹴り、相手をふらつかせれば観客は湧き立ち、叩きのめした末にダウンをとった際、それは最高潮を迎える。
 恐らく、我々が格闘技を見る視線は、ニュースで凶悪事件や衝撃映像を見る視線と同じ種類のものである。退屈に刺激を与えるために、必然的に行われる暴力を眺め、熱狂しているのである。殴られ過ぎて顔が腫れあがっていたり、激しく流血していたり、もはや意識を失っていたりするというのに、それを黙殺してその場で繰り広げられる戦い、あるいは片方の格闘家が掴み取った勝利に人々が興奮している事態というのは、通常では尋常な事態ではない。格闘技というフィールド上でのみ許された正当な暴力に夢中になることにより、まさに退屈を無理に埋め合わせようとしているとしか思えないのである。

 格闘技ブームは、退屈な時代を象徴する一つのファクターであると言えるだろう。


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